電脳コイル

4年前に観て以来おれを縛り付けるある種の呪縛的アニメ。この作品を見るにつけ他の殆どの作品をまともに見られなくなる。「ストーリー重視」と謳われている、あるいは世間の評価がそうであるアニメ作品なんかは特に。

おれの長いようで先人から見れば金魚のフンような短い人生において、10本の指に入るほどの超傑作アニメである。純粋なアニメ作品としては唯一SF大賞を取ったことでこの作品を知っている人も多いだろう。本来ならこの作品こそ「社会現象」になってもいいはずなのに知名度はなぜかそこまで高くない。だがこれを観ずしてゼロ年代以降のアニメーションを語ることは出来ない。

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(2011/11/25)
折笠富美子桑島法子

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そしてその知名度のなさがあまりに納得いかないので去年書いてとあるサークルに出した(結局長すぎてボツになった)電脳コイルの個人的感想・評価・考察をここにちょっとだけ書いておく。しかしライター業界では「短い文章でいかに人を惹き付けるか」が最も重要なポイントで、その点でいえばおれは全くもって逆位置にいたので弾かれるのも仕方なかったか。

以下に記事の一部抜粋。


<冒頭略>

とにかく電脳コイルを観た時に感じるこの「圧倒的なまでのリアリティ、そこから生まれるノスタルジー」は他の作品の追随を許さない。特に、子供から見た子供がしっかりと描かれている点は本当に素晴らしい。大人から見た子供の姿と、子供から見た子供の姿はまるで違う。特に内面が。

子供という存在は「元気いっぱいで無邪気」という外面から想像もできないほど、内面は脆く不安定だ。自分たちがいる「世界」においてまだ知らない出来事が多すぎる。それ故、ありのままの事実に直面するとその対処が出来ない。

この物語に登場する子供達はそのほとんどが小学6年生である。小学6年生というのは1年経てば中学生になる。中学生という存在は非常に定義が難しい。「大人になることを夢見る」小学生の状態から脱却しつつも、「大人(社会の一部)になる事を拒む」高校生の狭間。それは大人でも子供でもない「まだ何者でもない状態である」と定義するのが無難ですらある。

自分が小学生だったときと中学生だったときの心持ちは、きっと大きく違っていた。最近の小学生は高学年にしてかなり円熟していて世間の出来事を良く認識しているということなので、中学生という存在は小学生時代からの「脱皮」ではなく「延長」に近いのかもしれない。

この物語に登場する小此木優子、通称「ヤサコ」は小学6年生にしてはしっかりした性格であるが、緊急時にはまだ冷静に判断することが出来ず、どちらかといえばまだ「小学生」と言える。
それに対してもう一人の主人公の天沢勇子、通称「イサコ」は小学6年生とは思えないほど成熟しており、危機的状況への対処も冷静にこなす、「中学生」に近い存在であった。

このアニメの前半ではそんな2人を中心とした学校生活や夏休みが丹念に描かれる。しかしこのアニメで描かれるのはただの日常ではない。「電脳メガネ」という道具を使って見える虚構の物質、生物をめぐったスリル溢れるストーリー。それはまさにSF的展開で、「電脳ペット」や「街の中にある古い電脳空間」などSF愛好家には堪らないものが物語の鍵を握る。

物語や小道具が現実とはかけ離れたまさにSF的虚構展開であるのに対し、登場人物はどこまでもリアリティをもち且つ魅力的に描かれている。これが視聴者にストーリーを難なく飲み込ませる最大の要因だろう。

そしてストーリー。これがゼロ年代以降のアニメの中でも最高峰と言える出来。
とにかく伏線回収が鮮やか。イマーゴ、美智子さん、4423、謎の空間、カンナの死…いくつも散りばめられた謎が最後に全て繋がって終幕が導き出される展開はまさに圧巻。
この作品が海外でも幅広く受け入れられたのは、ハリウッド映画の多くが作品のストーリー性を重視していたからではないだろうか。この『電脳コイル』という作品のそれは世界に通用する代物である。

<中略>

このアニメで欠かせない「電脳空間」という存在について。
最終回でイサコに向けての「痛みを感じる方向に走れ」という言葉はもちろん現実を指し示している。電脳世界は痛みを伴わない。そこにはただ、虚構の世界が広がるだけだ。
しかし、虚構には触れることが出来ない。温もりも痛みも認識出来ない。

「感触」とはつまり、触れることは感じることに直結しているということ。触れることで始めて感じる優しさも辛さもない、ただただ空虚な空間――それは現実でも擬似的に構築することは可能である。孤独であればいいのだ。それがイサコのとった行動であった。イサコは自分で作り出した空間から抜け出した後も1人でいることで、結局は擬似的に空虚な世界を作り上げてしまった。

その空間に偶然、いや必然的に繋がっていたヤサコ。
彼女の名前は「優しい子」と書く。まさしくイサコが必要としていたものではないか。触れることで初めて感じるもの。
イサコはヤサコに自分の作り上げた闇から救われたときに間違いなくその優しさに触れた。だがその後、ヤサコから離れ違う道を歩み始めた。
しかしこれは決別でも孤独に戻ったわけでもない。まさしくそれはイサコの「門出」であり、ヤサコはそのすべてを悟ってイサコの「さよなら」を受け入れたのだ。

OPの「プリズム」やEDの「空の欠片」の歌詞をよく見てみると、物語の核心となる言葉が散りばめられている上、OPとED自体もリンクしていてアニメとの強い親和性を感じさせた。

・プリズム
「手を伸ばせばいつでもあるはずのぬくもりは 幼い日のまぼろし」
「眩しすぎて見つめることもできない太陽 明日へと続く道にいつも影は一つ」
・空の欠片
「微かに見える空の欠片を追いかけて 光も影も心に描いて走るとき」
「踏み出す一歩目は小さくていい 大きな勇気がいるから もしも不安な日は半分もらおう あの時してくれたように」

プリズムが電脳コイルの「闇」を描いているのならば、空の欠片は徹底した「光」を描いている。
この対称性はアニメのOP・EDとしては王道といえる配置だが、このアニメではその王道さが一際効果的に作用している。

<中略>

『電王コイル』という作品は間違いなく日本アニメーション史に名を残す。これ程に高いストーリー性と個性的で魅力的なキャラクタたちを併せ持つ作品はそうそう生まれてはこないだろう。
私はこの作品に「未来」と同時に「現在」の在り方をも見た。あなたはどうだろうか。



抜粋終わり。
こんな感じで実際はもっと長い。監督の磯光雄氏、総作画監督の井上俊之氏、音響監督の百瀬慶一氏、キャラデザの本田雄氏の話や制作のマッドハウスの話(『エースを狙え』や『四畳半神話大系』を例に挙げその制作傾向など)を中略のあたりに連々と書いていたのでクソ長い文章になっている。正直自分でも読み返すのがめんどくさかった。

しかしまあ、五年前に観た時とはまた違った感動や面白さがあっていいね。無駄に年食ってるわけじゃなかったか。
デンスケが自分を顧みず死ぬ直前までヤサコを助けようと戦うシーンと、その後ヤサコと再会し改めてヤサコがお別れを言うシーンはやはりいつ観てもダメだ。電脳だろうが実体だろうが動物ネタには死ぬほど弱い。

「ペットはたいてい人間より先に死んでしまう。何でそうなっているのか」
「飼い主がペットの死ぬところを見たくないように、ペットだって飼い主の死ぬところを見たくないだろう」
「だから、悲しみに耐えられる人間の方が、ペットの代わりにその悲しみを引き受ける」

これらのヤサコの母の言葉が四年経っても忘れられない。たぶんこの言葉を一生背負って生きていくんだろう。それまで「ペットが死ぬのは辛いんで飼わない」というスタンスであったが、これを聞いた時から違った見方ができた。ペットが死ぬのは辛いから初めから飼わない、という選択肢もまた人間の傲慢であったのだな。

しかし同時に「感情移入することは損だ」というのもひどく納得のできる言葉であって、自分の脳内ですら整合性がとれずにいる。「触れることで感じられる温かい世界が、今生きている本当の世界」ってのも今のネット隆盛時代においては耳の痛い言葉である。比喩的に「電脳世界に行ったまま帰ってこない人」とかもいるし。

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(2007/06)
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さてこのアニメ、冒頭でも触れたけどいつ見てもこれワクワクするんだよね、それも1話から。おれの好物のSFとノスタルジー溢れる舞台設定・ストーリーが見事に融合してる大傑作。ヒゲの話などのギャグ部分では腹痛くなるほど笑ったし、首長竜の話では不覚にも泣かされた。ほんとストーリーが極限まで練りこまれていて飽きるどころか何度でも観たくなる。たぶんこれで観たの五回目くらい。でも飽きないんだよ。

NHKアニメ最高傑作なのはもちろん、ここ近年のアニメの中でも最上位付近に位置する。しかし惜しむらくはSF大賞取ったにも関わらず知名度があまりないこと。ほんと何でなんだろうなあ。
思うに冒頭で使った「社会現象」とは、第2世代以降のオタクがリアリティや細部構造を排除してきた上に成り立っている言葉なのではないだろうか。

06年頃からいわゆる「萌え」ブームが起こったその代償に、アニメ業界から「ストーリー性の重視」という基本理念がスッポリと抜け落ちたのではないか。いやまあ「キャラクタ重視」でも観れるアニメは数多くあるけれども、結局1クール12話ぶん見続けるにはそれなりのワクワク感が必要になってくる。最近勢いのあるオリジナルアニメはまさにそういった「先の読めない面白さ」を最大の武器とするものであり、萌えが飽和した現状で、おれたち視聴者の多くが待ち望んでいたものではないだろうか。
つまりオリジナルアニメの流行は当然の帰結であったと言えよう。『電脳コイル』はそうした潮流の先駆けたる作品だった。

とにかく観ていない人は一度でいいから見てみることを勧める。完璧なまでのストーリーと魅力的なキャラクタたち、そしてもう戻ることの出来ない少年時代のノスタルジーが待っている。そして全て観終わった後のすさまじい喪失感(あるいは脱力感)も。