坂道のアポロン

本来なら春アニメ総括の方に載せるはずだったんだけど、書いてたら予想よりちょっと長くなったので別エントリにすることに。


結論から言うと、原作を読んでいた人とそうでない人とで評価が真っ二つに分かれている作品だと思う。おれは前者だったためか後半観てるのがかなり辛かった。


まあこのアニメもよくある「アニメ→原作」の方が両方面白く感じられていい、というタイプの作品なんだろう。しかし漫画原作でこのタイプの作品に出会ったのは久し振りだ。漫画原作ものはたいがい漫画読んでからアニメ読んだら両方楽しめる、あるいはどちらから先に見ても両方楽しめるというパターンが多いからだ。なぜかというと「漫画を読む」ということはものすごい大雑把に言えば「絵コンテ」を見てる、あるいはアニメーションになる一歩手前のものを見ている、ということだからだ。小説は活字のみで(ラノベは挿絵あるけど)基本的に作中でのキャラクタの心情描写は明確であるのに対して出来事や行動は文字をもとに読者が想像力で補っていくしかないため、小説を先に読んでからアニメを見ると「実際に映像化されたもの」と「自分の頭の中で想像していた映像」に大なり小なり齟齬が生じてしまう。


あとは内容の取捨選択。ラノベ原作は活字媒体のため必然的にアニメ化するにあたって削らなければならない箇所が多くなり、そこに対して原作既読者が文句を付ける、というパターンがだいたいテンプレになっている。だからラノベ原作は「アニメ→原作」の順で、原作を読んでアニメとの違いや映像化されていない細かな箇所を確認し楽しむほうが健全。対して漫画は情報量がそこまで多くなく、行動や出来事にフォーカスを当てるのが小説よりはるかに楽である。だからアニメで見た映像はそのまま漫画に還元可能であり、両者の間に齟齬は発生しにくくなる。


で、この「坂道のアポロン」というアニメに話を戻すと、原作全9巻という分量で与えられた尺は1クール分。この時点で果てしない不安があったものの、1〜3話の出来がとても良かったため「あれ、これもしかしていけるんじゃないの」という希望の光が差した。しかし4話あたりから原作の重要箇所を削り始めて不安が再燃、だが同時に文句の付けようのないセッションシーンの映像化によりプラマイゼロに。


そしてそのままアニメは進行し、11話の時点ではもう9巻目の内容が半分以上カットされることは目に見えていた。そして9巻の内容は、薫の成長と律ちゃんとの距離の喪失から回復までを描くための重要な「医大生編」が大半を占める。この「医大生編」が丸々カットされたことによりアニメ最終回Bパートの内容に矛盾が生じてくる。
原作の内容を詳しく書いたら怒られそうなんで自粛するけど、薫が今でもピアノ上手い訳とか律ちゃんとの関係はどうなったのかとかが明確に示されているのでアニメ見て気になった人は是非読んでもらいたい。ちなみに最終回におけるアニメの原作改変で良かったのは百合香と淳兄に子供ができていたとはっきり明示されたことと、丸尾君が将来の夢を叶えて駅員になっていたことだろうか。


それと忘れられない協会でのラストセッション。ステンドグラスを背にして演奏する千太郎の反対でオルガンを演奏する薫。両者が一直線上に並んで演奏する絵は地下でのセッションからの時の流れ、長い間離れていた2人がようやく同じ場所に立てたことを示している素晴らしい位置関係だった。作画面においても言うことなし。これは本来アニメと不可分の要素なんだけど、個人的には「坂道のアポロン」という青春劇からこのセッションという要素を取り出して評価したい。


そもそもセッションは坂道のアポロンというアニメにおいて友情確認や絆を深めるための「手段」であった。それが何時の間にか「演奏をする」ことがメインに、つまりセッションが「目的」になってしまっていたのである。この倒錯がストーリーを歪にしてしまっている最大の理由。


ともあれ、一つのアニメーション作品として見た場合の「坂道のアポロン」は良作たり得る出来だったと思う。青春群像劇として見た場合、このアニメはやはり他の優れた作品に比べ見劣りするものになる。序盤から最後に至るまで削られた律と薫の絡み、そして最後までほとんど削られることのなかった薫と千太郎の絡み。やはり制作側はこれを「男の友情もの」にしたかったのだろう。間違ってはいない解釈だが、同時に「恋愛もの」としての側面があることを忘れてはいけなかった。それがこの坂道のアポロンというアニメにおける最大の失敗であると思う。