無題

昨日、父方の祖母が亡くなった。5年前から危篤状態になったものの驚異的な生命力を発揮して今まで植物状態でありながらも生き続けた祖母が亡くなった。
正直なところ亡くなったという実感がまるでない。そもそもおれが5歳の頃に数回会っただけなのではっきりとした記憶が脳の引き出しに存在しない。


涙も出ないどころか特段悲しいという感情も湧かないのだけれど、よく考えたら自分は死というものに対して鈍感なのではと思う節がある。幼稚園年長の時に母方の祖父を亡くした時も、小学生の時に席が隣だった女の子が高校生の時にお風呂場で頭を打って亡くなったと聞いた時も、「ああ、そうなのか…」という感情しか出て来なかった。その先が出てこない。表情筋を鍛えようが感受性を豊かにしようが絶対的に到達できない隔たり。


「死ぬ」ということはどんなことなのか未だにわからない。おれのような「生きることは死ぬよりつらい」と思ってる人間にとって死は憧憬するものであるし、未来が薔薇色に輝いている人間にとって死は恐怖の対象なんだろうが、両者の隔絶はマリアナ海溝より深いわけで、そんな平行線の延長上を辿ることも馬鹿馬鹿しくなるような価値観の違いのせいで「死」は自分のなかでどんどん中身を失い形骸化していった感じがする。


誰かが死ぬということに対して抱く最大の感情が今のところ「寂しい」なのでこれは生きる側の圧倒的エゴイズムだと痛いほど思い知らされる。「あなたが寂しい」のではなく「おれが寂しい」だけであって、他人からしてみたら「天国でも元気でね」という前を向くためのフレーズにも「いや、天国でも意識あるなんて嫌なんですけど…」と返すしか脳のない、つまりは身近な人物から遠く離れた名前すら知らない人間までありとあらゆる「死」は自分本位でしか捉えられないことをおれは認知している。


「生きる」ということでさえわけがわからないのに「死ぬ」なんてことはもっとわけがわからない。なんでただ生きるためには膨大な努力が必要なのに死ぬ時はあっけなく死ぬのか。「命の重さはみんな同じ」とか言ってても命の長さはみんな違うわけで、それってものすごい不平等なことなんじゃないのか、おれみたいに年がら年中死にたい死にたい言ってる人間もいれば、もっと生きたいと願っていても長くは生きられないと宣告される人もいるというこの事実はどうなんだ、と思わずにはいられないし、仮にそういった人達が「寿命分けてよ」って言ってきたら普通に分けると思う。それは善意とかじゃなくて利害関係の一致というやつだ。


おれの親戚には障害をもった人がいるけど会う度に「何でこの子がこんなきっつい思いしてるんだろうなー」と考えてしまうし、その考えが出てくる前提として「障害を持っていない自分」があるわけで、両者の間にある隔絶はやはり、バイカル湖よりも深くて暗い。それは最近の「電車にベビーカー」問題みたいな社会的弱者と社会的強者の隔絶にも繋がるし、結果的に生きてる上で何らかの「分かり合えないもの」は生まれてしまう、ということを暗に示している。


生と死は分かり合うことはできないし、かといって切り離すことも出来ない。「生と死は一枚の紙だ」と以前おれは自分で作った曲の歌詞で書いていた覚えがあって(こんなことばっかり書いてるからおれの作った曲の歌詞はボツにされやすい)、紙の表に書いたことと裏に書いたことはどう頑張っても混ざり合うことはないけど別々に切り離すことも出来ない…みたいな、今にして思えば恥ずかしいことをつらつらと記していたんだけどそういう認識は自分の中で変わらなくて、そういった何らかの明確なイメージを持っていないと、死という抽象的すぎるものから気付かないうちに遠ざかって、やがて忘れてしまうんじゃないかと考えてしまう。


でもまあやっぱり死というもの、もっと言えば死んだあとのことは死んだ人間にしかわからないし、だからこそ葬式は生きている人間のためにするものであり、墓も生きている人間の贖罪なのではないかとまで考えが及ぶのだけれど、結局誰が死のうが生きようが本質的におれには関係のないことである、と心の奥の冷めた部分が前に出すぎた結果が今の自分なのかなーとぼんやり考えている。今もこうやって祖母が死んだことを話の種にしているわけで、こうなるといよいよ自己批判のループに囚われてしまいそうだが、最終的にはおれもいつか死ぬ運命にあるので、おれが死んだ時におれを知っている誰かが「ああ、そうなんだ…」とだけ思ってくれればおれも救われるのかな、と存在するのかすら怪しい未来のことを思い浮かべる。


オチとかないです。おわり。

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