GJ部 第12話(最終話) 「さらばGJ部と言おう」

なぜおれがあんなに馬鹿にしていたGJ部のことを手のひら返すように賞賛するのかというと、まあ大体察しがつくと思うんですが「GJ部24時間耐久視聴」に参加したからなんですね。実際は5〜6時間くらいしか見てないんだけど、このアニメは「一気に通して見る」ことによって見え方がまるで変わってくるということがわかってきたのだ。今までは1クールという固定された放送ルールに則って毎週1話25分GJ部というアニメを見てきたわけだが、時間を絞って1話から最後までずっと見ると小さいネタが積み重なってどこか自分の中で心地いい空間が形成される。

最終回にしてついにGJ部員が部室の外に出たり部室以外の校舎の映像を映すことになった。それは端的に3年生の卒業とこの物語の終わりを意味している。Aパートでキョロと紫音が自販機で飲み物を買いに外に出た時点でもうその事に気付いてしまう。それに続いて綺羅々が携帯(メール)を通して饒舌になるという唐突な変化も「この変化の後がもう見られない」であろうとことを予想させる。真央の「お前に残せるものはほとんどない」というセリフにいたってはあまりに直接的だ。恵が、真央はキョロと二人きりになることを「しなかった(don't)」ではなく「できなかった(can't)」のだと解説していて、それはやっぱり今までのように部室でふざけあってる関係性を最後まで維持したかったのだと間接的に伝わってくる。キョロと真央との関係はふざけあってるだけで成立していたのだ。ちなみにここは1話の恵の「お姉ちゃんは少女漫画を読まないんじゃなくて読めないんです、"don't"ではなくて"can't"のほうです」って台詞と繋がっている。真央は基本的には「しない」ということを選択しないのだ。やれることは本能の赴くままに全部やる。やらないことはできないことだけだ。

EDで「泣かずにいるよ、約束だから」と歌っているのだけど、真央だけは唯一最後に涙を見せてしまう場面があった。しかしあの涙は間違っても悲しみの涙ではない。GJ部にふさわしい笑いの涙だ。だから誰も真央の涙につられて涙を流すことはなかった。普通のアニメならあそこでつられて紫音と綺羅々が笑いながら泣くという展開にするだろうが、GJ部ではそうしない。あれは本当に笑いからくる涙だからだ。そうなるとEDの歌詞の「約束」とはつまり悲しくて泣いてしまうことだったのかなと想像できる。

無表情あるいは無口キャラが己の感情を露わにするのってやっぱりカタルシスが生まれるし凄く重要な転換点になるのだけど、このアニメではその転換点を最終回にもってきたということに寂しさというか「もうこの感情の発露を見られることがないのだ」という一種の手遅れ感がある。もっと前からメールでやり取りしていれば…とキョロは思ってはいないだろうが、我々は違う。もっと綺羅々がキョロや他の部員に対して感情を出すところを見てみたかった。この部分が最終回の中で一番の喪失感を含んでいた。

そんな随所に「別れ」を意識させる最終回で、正直なところ普通に感動させられてしまい、最初は「違う…おれの知ってるGJ部はこんな真面目な作品ではない…」という意味での涙をぼろぼろ零していたのだけど、もう一度1話から最終話まで見て、「ああ、おれが気づかなかっただけで、このアニメは最初から最後までずっと真面目だったんじゃないか…」と気付き涙をぼろぼろ零すことになった。圧倒的な感動だ。悲しい別れではない。そもそもこのアニメに悲しみなど存在しないのだ。ここにあるのは真央の言うとおりGJ部魂だけだった。GJ部よ永遠であれ。