たまこまーけっと 第12話(最終話) 「今年もまた暮れてった」

最後まで見てやはりこのアニメは全ての出来事を商店街という空間の中に収めてしまうのだな、と理解した。それは学校の中(コミュニティ)は映しても校舎の映像を映さないOP映像を見れば明らかだったはずなのに、どこまでもおれはこのアニメを商店街と学校とで織りなされる人間関係を丹念に描く物語だと思い込んでしまった。それはなぜかというとみどりの深層まで入り込んでくる人間がたまこの家族の他にはみどりやもち蔵といった学校の友人だけだったからだ。しかし彼/彼女らの行動範囲は学校より学校の外のほうが当然だが遥かに広く、映像もそれを意識して作られている。学校よりも学外での活動のほうが圧倒的に多いのは、学校という閉鎖空間を抜けて商店街というそれよりも広い閉鎖空間に物語を位置付けたからだ。だからバトン部の活動もそこまで重要視されてない。そもそもアニメタイトルの時点で気付くべきだったのである。なんせ「たまこまーけっと」なのだから、「まーけっと」が主役でなくてどうする。

そして商店街という空間が重要視されたからこそ、Aパート後半で商店街の店のシャッターが全部閉まっているショットはたまこに負の印象を与えた。今まで一切の描写もなかった、たまこの母親が亡くなったときの商店街の描写を重ね合わせることで、「あの時もそうだったのだ」という追体験を(尺をとらずに)視聴者にさせることができる。たまこの母親の死の描写を物語中に一度たりとも入れなかったのは「たまこまーけっと」という空間を守るためだろう。このアニメに影はいらなかった。影があるから光があるとはよく言われるが、たまこまーけっとは光の強弱を調節することによってずっと光だけを当て続けることに成功している。そういう意味ではまさに日常系アニメの究極系という仕上がりだ。

ともすればチョイやデラとの別れは影になってしまいがちだが、すぐにデラを商店街に戻すことによってその影をかき消している。マスターが「さよならだけが人生ではない」と言っているのは完全に駄目押しだ。このアニメはいつだって別れよりも出会いを意識させることに注力してきた。クラス分け発表の時だってそうだった。実際のところたまことみどり・もち蔵のクラスが別々になってもそもそもクラス単位での描写をすることがなかったのでクラス分けという行為はあまり意味を成していない。いつだって皆は商店街の中で行動している。

あと、このアニメを振り返ってみるとあまり過去回想がないことに気付く。ストーリー重視の作品ではないので当然と言えるかもしれないが、物語中に実はずっと過去を象徴するアイテムが登場していた。それがEDにも象徴されているレコードである。レコードだけが過去の産物でありながら現在のたまこたちに影響を及ぼしていた。だから過去回想はいらなかった。過去回想とは現在の思考行動に影響を及ぼすためのもっともわかりやすく直接的なファクターだが、このアニメではレコードがその役目を担っている。だから過去を振り返る必要はなかった。過去を振り返るという行為は若干の後ろめたさ、負のイメージを伴う。それは物語に影を作り出す行為に等しい。だからたまこたちは現在と未来しか見ていない。過去を振り返ったのは最後に影が出来てしまいそうなシーン、たまこが亡くなった母親のことを思い出しそうになったあのシーンだけだ。あそこではその影を取り払うために自分と商店街との歩みを振り返っている。ここでの過去を振り返るという行為は母親の死を拭い去るようなポジティブなものだ。そしてその振り返った過去が現在の「王子の結婚相手になることを断る」という近い未来の行動に繋がる。

王子の結婚相手を探す話が結局有耶無耶になったのはもうあからさまに「そんなのどうでもよかった、たまこが商店街からいなくなるという現実可能性を提示して他のキャラクタの思考に変化をもたらしたかった」という考えがあったからで、だから本当の相手がチョイなのかどうかは問題なのではない。別れの際トラックの助手席でチョーカーに触れるシーンがあったことから「王子の結婚相手はチョイだった」となんとなく想像は付くのだけど、それはあくまで想像の域を出ない。結果は視聴者各々が判断すればいいのである。固定された未来を提示することはこのアニメのタブーだ。未来がどうなるかわからないからこそ「今」がある。たまこまーけっとはその「今」を切り取った素晴らしい日常を映し出す作品だった。