AURA〜魔竜院光牙最後の闘い〜

観に行って来ました。さすがに全国12館を14日間で巡るほどの時間も体力も無かったので1回観て終了。まあ作品の内容が内容なので劇場公開連動企画とか無くても1回で充分という感じです。面白くないとかそういうわけじゃなくて、とにかく内容がエグいので精神が削られる。岸監督がけっこうファンタジー寄りの人間だからまだダメージ抑えられたけど、これ他の人間が監督やってたら致命傷になってたかもしれない。中二病というテーマをファンタジー感覚でなくリアルのものとして扱っているがゆえに非常にエグい。『中二病でも恋がしたい』が『AURA』そっくりだという情報は去年から知っていたのだけど、両者は座標的に横軸が同じ位置でも縦軸がまるで違う位置だ。扱う題材が同じでもその捉え方や向き合い方によってここまで違うことになるのか、ということが改めてわかったので『AURA』も『中二病でも〜』も観てよかったとは思います。

主人公はかつて中二病だった佐藤一郎、ヒロインは現在進行形中二病佐藤良子。大雑把に言えば、一郎が良子の中二病を矯正していくという話なんだけれど、その過程がとても現実的で深く突き刺さる。中二病でも恋がしたいとは違い、どこまでも現実を見据えた「中二病」の在り方を突き詰めている。中二病とは何なのか。何のために、あるいは何が原因で人は中二病を発症してしまうのか。そして中二病と現実は地続きではいられないということ。人と違う自分を見せること。あるいは世界に嫌気が差した自らの心を偽らないための手段。AURAでは一貫して中二病というテーマを扱っているが、それを映す角度は様々である。

一郎と良子を取り囲む人間関係ははっきりと3つに別れていた。一郎や良子のことを同士だと思って近付く者(木下、鈴木、織田)、気持ち悪いと切り捨てて遠巻きにする者(大島、山本、高橋)、そして一郎や良子に普通に接する友達のような関係の者(子鳩、伊藤)。一郎はその中で思考が次々と変わっていくのに対して、良子は一貫して自分の考えを貫き、また誰に対しても心を開くことがなかった。一郎も本質的な意味で心を開くことはなかったにせよ、友達として付き合っている二人とはそれなりに友好関係を築けていた。もっともこの二人は不良が停学になったとき「○○君はこれで大きく株を下げちゃったよね」と言っていて、一郎はそれに対しての不信感を抱いていたらしい描写があるが。子鳩と伊藤の2人は元々上位カースト(作中では「貴族グループ」と称される)に属していたが、山本の暴行事件を切っ掛けに一郎に接するようになる。

こうした2人の「危険を察知する」行動はものすごく人間らしい。それと同時に普通じゃない人間を排除しようとする大島たちの行動も人間らしい。しかし「妄想戦士(ドリーム・ソルジャー)」と呼ばれる中二病患者たちは教室の中でも自らの中二病を貫いている。妄想戦士の中には含まれていない良子を筆頭に、彼女らは「普通」である周囲と迎合しようという気は全くない。だが「普通でないこと」はこの一般社会では悪とされる。それは擬似的な社会空間である学校(クラス)も同じことだ。善と悪の価値観は人それぞれだが、普通側に属している人間とそうでない人間とでは価値観が180度違う。

このようにAURAには様々な価値観をもったキャラクタが出てくるが、彼らはあくまで中二病というものの本質を浮かび上がらせるための存在にすぎない。良子と同じ側の人間たちも、一郎が目指していた側の人間たちも、結局は物語において大きな変化をもたらすわけではない。切っ掛けも答えも、全ては一郎が自力で見付け出す。確かにそこに他者は介在しているが、結果論で言えば一郎は自らの力で中二病との向き合い方に一つの結論を導き出したのだ。良子は過去の一郎を映す鏡のような存在だ。それは二人の苗字がともに佐藤であることからも明らかだろう。だからこそ今の良子を変えられるのは一郎しかいなかった。いじめられていた一郎の過去は今現在の良子に受け継がれている。いじめの理由は単純だ。人とは違うからである。人は「普通」ではないものに対して敵対心や恐怖心を抱く。それは「普通」であることが壊されてしまうからだ。「普通」こそが平穏を守るための最短の近道だ。だから人は普通と違うものを排除しようとする。それは防衛本能とも言える。

だがAURAでは「ふつうじゃないものを排除しようとする理由」としてもう一つの要素を提示した。それが「嫉妬」。人間は誰しも普通で有りたいと願いながら「普通ではない自分」を夢見ている。普通じゃない自分は他人からの尊敬や羨望の対象になる。その快楽を欲する人格はきっと誰の心の中にも大小の差はあれど存在する。一部女子グループが良子をいじめていたのは「あいつだけ校則破って変な格好をしててもお咎めなしなのはおかしい」からだと、首謀者の大島自らが言っている。人は進んで普通の道から外れることは難しい。理性が、感情が、その行動にストップを掛けるからである。しかし良子は理性も感情も無いかのように、毎回奇抜な衣装を着て学校に来ている。恥も外聞も無いかのように振る舞う。その姿をある人は「おかしい」と嘲笑し、ある人は「気持ち悪い」と嫌悪する。いずれにせよ良子はクラスという閉鎖環境の中で異端と判断され、上位カーストの人間によって排除されることになる。そしてその排除はかつて一郎が味わった過去と同じだ。だからこそ一郎は最初こそ自分が再びいじめられることを気にして良子との接触を避けたが、担任に世話係を頼まれてからは渋々ながら彼女の行動に付き合うようになる。ここで逃げ出さなかったのは担任が一郎の秘密を握っていたからという理由が一番なのだけど、このことを両親や姉に相談せず世話係でいることを選んだのはやはり、自分の過去と重なる良子を無碍には出来なかったのだろう。

そして一郎は良子の信じる世界が全てまやかしであることも知っていたが、目を覚まさせる方法まではわからなかった。一郎と良子とでは思考回路が違うからだ。どんなにいじめられても良子はコスプレや痛い言動をやめようとはしない。それが何故なのか一郎にはわからなかった。だから一郎は雨の中で良子に「もっと自分を守ろうとしろよ」と叫んだのだ。自助努力が足りない。目立ちたいなら時間をかけて他の真っ当な方法で目立てばいい。普通じゃ駄目なのか。なぜそこまで妄想世界にこだわるのか。良子の答えは机を積み重ねた「神殿」が学校の屋上に建築された時に明らかになる。何のことはない、「この世界が嫌だから」だ。言ってしまえば現実逃避だ。しかしそれはただの逃避ではない。自らを守るための逃避だ。それ以外の方法が思いつかないほど、佐藤良子は幼かった。自分ではなく世界の方が狭量なのだと言い張る良子は、自分の信じた道を決して疑うことのない、まさしく中二病患者だ。だからこそ一郎は良子を救い出す時に過去の中二病を患っていた頃の姿で良子と向かい合おうとした。中二病患者を救えるのは同じ中二病患者か、あるいは元中二病患者だけだ。同じ経験を背負った者同士だからこそ相手の考えがわかる。

良子は「この世界が嫌だ」と言い、一郎は「別の世界なんてない、この世界で見えない敵と戦うんだ」と言う。この世界には幸いなことに敵は沢山いるから毎日戦うことになる、と一郎は苦笑しながら言う。それは良子が一番嫌うべき世界だ。それでも一郎は良子にこの世界にとどまることを望む。家電量販店に行って冒険しようと笑いながら良子を誘う。現実と良子の妄想の世界の境界線は色んな場所にある。それを悟った良子が一郎に「馬鹿みたい」と言うのだ。全くもって馬鹿みたいな話である。しかしそんな馬鹿みたいな話があるからこそ、この世界でも自分は自分のまま生きていける。「馬鹿みたい」と言った時に良子が流した涙は決して悲しみや諦めの涙ではなかった。希望が見つかったこと、その喜びの涙である。良子は一郎がいるからこの世界で生きていける。別の世界が無くても生きていける。最後に良子が制服で学校に来たのはその決意表明だった。これからは一郎が良子に「普通」を教えていくのだろうし、良子はその普通をゆっくりと少しずつ受け入れていくのだろう。二人の物語は始まったばかりだ。これは始まりに至る物語だった。

放課後の校舎における良子から一郎にした口付けは洗脳解除という名目のもと行われたものだったが、一郎の部屋で良子から一郎にした口付けは、別の世界というまやかしを解除し、妄想世界から解き放たれるための行為だった。前者に愛情表現が無いのに対して後者にはそれがあるというのも違いの一つだが、これらはあくまで前述の意味に付属しているものに過ぎない。良子が一郎に抱いていたのは最後の数分以外は全て「自分のことをわかってかれる」という安心から生み出された信頼感で、決して恋愛感情ではなかった。その信頼感を恋愛感情に変える切っ掛けになったのが恐らく最後の口付けなのだろう。良子がそれに自覚的かどうかはわからない。一郎もそうなのかわからない。でもこれはわからないのが正解だ。感情を簡単に割り切れないのが普通の人間だ。一郎も良子も、本当の意味で普通に近付こうとしている。この世に普通の人間なんて実際のところ存在しないが、普通とは本質的には「人と同じである」ということではないと、もう二人は気付いている。だからこそこの世界がクソッタレだとわかっていてもこの世界で生きていくことができる。

アニメーションの話。
作画は正直映画にしては…という感じだったのだけど、決めるべきところではしっかり決めてくれたので文句無し。最後の良子の笑顔が良かった。演出も中二病でも〜みたいな誇大演出を使わずに言葉だけで中二病の世界を見事に具現化していた。最後に至るまでほとんど良子が表情を変えなかったのも印象的。だからこそ観客は「あれ、もしかしかたらこの子は本当に別の世界から来てるのか」という疑念を最後まで拭い去ることができない。これは上手いやり方だった。屋上の神殿こと机のタワーは現実では有り得ない構造で積み重なっていて、作中で唯一ここだけ現実感がない。これは演出上仕方なかったんだろう。女子高生が簡単に作れるような机のタワーでは話の山場が作れない。だから見掛けは壮大な机の神殿を作るしかなかった。ここがAURAにおける最初で最後の誇大表現。これに対して今まで現実的だったのになんで急に非現実的になるんだと批判する人もいるだろう。その指摘は決して間違ってはいない。しかし物語としては一度でも良子が見ていた別の世界の片鱗を見せなければ今まで良子が信じていたものがどれほど強固な世界だったのかということが伝わってこない。頑ななまでに自らの意思を突き通した良子のことをわかるためにはあれくらいの舞台装置を用意するしかなかった。

とにかくフィクションにしてはあまりにも現実と真正面から向き合っていて、それがおれのような元中二病患者としては過去の古傷を抉られるので他の(過去・現在進行形問わず)中二病患者たちに薦める気はあんまりしないというのが正直なところだけど「中二病でも〜」を終始笑顔で見られた人ならダメージほぼ0に近いと思う。笑いながら毒を吐き散らすという田中ロミオのイメージが端的に現れている作品だ。痛いけど確かに救いのある、老若男女問わず全ての中二病患者に捧げられた狂おしいほど美しい傷だらけの物語。