ゆゆ式 第3話 「夏休みじゃーい!」

  • 人生が楽しい人間はゆゆ式を中身が無いからつまらなく感じ、人生がつらい人間はゆゆ式のような他愛のない日常を面白いと感じるのではという話が持ち上がったけどおれは人生アレだけどゆゆ式の話自体はさほど面白いとは思ってないのでこの説は破綻した。しかし話が面白くないからといって駄作かと言われればそうではなく、ゆゆ式はアニメーションとしてはレベル高いしキャラクタの言語感覚が特殊なので「つまらない」と感じるわけでもない。面白いの対義語はつまらないではない。その間に無数の表現方法が位置している。ゆゆ式は特に視覚的・聴覚的な楽しさを追求して作られたという印象を受ける。
    • で、ゆゆ式が凄いのはコンテにおける異常なまでのセンスとキャラクタの有する連想ゲームのような言語感覚なんだけど、前者が1話を境にだんだん落ち込んでるのに対して後者は1話以降どんどん磨きがかかっている。40℃から不惑を導き出したりとかほとんどこじつけに近いけどそれが許される環境が整っている。ゆゆ式に圧倒的な安心感があるのは「キャラクタがどんなことをしても/言っても許容される」という土壌が成立しているからだろう。
  • アニメは原作よりも時間に気を配ってる。原作ではコマの隅っこに描かれているような時計だが、アニメではわざわざ時計のみが映し出されているカットを挟んでくる。それに加えて重要なものであるはずの「夏休みにプールに行く」というイベントが3分足らずで消費される。日常系のアニメってその需要からわかるように「時間の流れ」というものを意識させないことが多い。時間の流れは必然的に出会いや別れを生み出すからで、それは今まで続いてきた日常を変えてしまうからだ。だがアニメ版ゆゆ式ではそんなものは知らんとばかりに時計を様々な場面で映し出す。このあざといまでの時間の提示のおかげで終わり(最終回)への免疫がつくのでよい。
  • あとゆゆ式の登場人物たちは他人に対して何かを言うことで言われた相手が何かしらの変化を生じると思ってるフシがあって、それが端的に現れている話が今回のBパートの「死なない、かわいい、喋らない」のネタ。言葉というものに重点を置いてることを利用(応用)したゆゆ式らしい話だった。