惡の華 第八回

長濱監督はハルヒ的な新たなムーブメントを起こそうとしているというか、誰もやろうとしなかった(敬遠してきた)試みをここで意図的にやろうとしている感じがする。それはこのアニメのテーマ自体が既に一般的な人間からすれば敬遠されるべきものであり、そうした大衆狙いではなく特定の層に向けて刺さるように作られたこの惡の華という作品を利用してる節すらあるんだけど、まあ持ちつ持たれつというか、原作者である押見修造もこの状況を楽しんでるようなのでそれなら視聴者である我々に口を差し挟む余地はない。

で、上述した「新たなムーブメント」「敬遠されてきた試み」として象徴的だったのがAパートにおいて春日と仲村さんが二人手を繋いで歩いているシークエンス。下手すれば冗長的に思えてしまうほど長く、二人は学校から家までの道を手を繋ぎながら歩いている。この「何かあるようで何もない」という長い時間は1話で既に見られたものだ。そもそも1話の尺の使い方は少々異常なところがあった。春日が佐伯さんの体操着を盗むのは原作において一番最初、ページ数にして50ページにも満たない部分だ。しかしアニメでは春日が佐伯さんの体操着を盗むまでに20分以上の時間を使っている。

以上のようにこのアニメでは一般的に「溜め」と言われる時間を用いることが多い。最近の情報過多のアニメとは真逆のベクトルで、とにかく無駄な贅肉をそぎ落として骨と皮だけになったような脚本。なのでいくつかの心情描写も必然的に抜け落ちてしまうのだけど、この「溜め」の時間がキャラクタの心情をこちら側が読み取れるような「行間」として作用してるのが興味深い。春日と仲村さんが歩いていたあの長い時間は春日が「明日が来ること」への恐怖や自分(たち)が行ったことを反芻するための時間だった。それがダイレクトにアニメに反映されて視聴者にも分かるようになっている。あのシーンを長いと感じるか短いと感じるかでその人がこの物語を内から見てるのか外から見てるのかがわかる。

他には春日が帰宅してから朝学校に登校するまでの時間が長いというのもある。これは完全に春日ひとりに関連付けられる時間の長さだ。春日は自分のやったことの重大さを(仲村さんと歩いて帰っている時に)もう既に噛み締めているので、ここでの時間の長さは学校へ行って自分のやったことがバレてしまうという恐怖のみに集約される。この恐怖は教室で「自分が行ったことが周りにバレていない」とわかった時に安堵と後悔の念に分裂することになる。

そしてラスト、春日が行ってきた全てのことが佐伯さんにバレてしまったところでの幕引き。尺を贅沢に使ったのは恐らくここで一旦締めたかったという思惑もあったんだろう。前回で教室を自分の感情の赴くままにめちゃくちゃにした昂揚感から、自分の行いが一番知られたくなかった人に知られてしまうという絶望感への突き落とし方が上手い。こうした光と闇のバランスがしっかり取れているからこそ我々は惡の華というアニメを信頼出来るのだ。

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