ハル

傑作とまではいかないが手堅い良作だった。Production I.G直系のWIT STUDIOが手掛けた映像の完成度の高さはもちろん、物語自体も序盤でしっかり伏線を張って最後で全部回収するという理想的な構成。キャラクタの個性も確立され演出も近未来を意識させないように配慮してて全体的な作品の雰囲気を壊さないようになっていた。咲坂伊緒のキャラデザはやっぱりアニメ的なんだけど妙な繊細さがあって癖になる。

以下ネタバレしているので閉じておきます。この映画に関してはネタバレ喰らったら楽しさ3/4くらい減ってしまうので映画見てから読んで下さい。


序盤でハルとくるみの関係性や両者を取り巻く環境や周囲の人間について軽く触れられた後にロボットのハル(以下「ロボハル」)がくるみの元に派遣される。所謂ロボット療法というもので死んだ人間の代わりになって生きている人間の心を癒すみたいな治療法なんだが、このような方法が確立されている時点でこの世界が近未来設定だということがわかる。京都の街並みは今と変わらないが、技術だけが発展し進歩を遂げた世界という認識で正しいだろう。これが設定でありながら物語全体の伏線となっているのが上手い部分だった。

ハルがいなくなって心を失ったくるみ、そしてハルの代わりになったロボハルが歩み寄っていく描写が丹念に描かれる。最初はロボハルを拒絶していたくるみはハルが持ってきた巨大なキリンの置物により徐々に心を開くようになり、ハルはハルで家事などの基本的な生活手段を身につけていく。ここで物語を二人の生活だけに絞るのではなく、ロボハルに世の中の色々なことを教えている博士(医者)や老人ホームの人達との触れ合いによってストーリーがしっかりと横軸に広がっていく。実はこの横軸への広がりそのものも伏線だったんだけど包括する内容があまりに大きいのでどうしても見逃してしまう部分が出てくる。

近未来設定でもうひとつ、ボタン型カメラというハルとくるみの二人の思い出の映像が記録されているアイテムが物語の核心を読み解く鍵になる。これは専用のパネルに乗せることで映像が映し出される、いわばDVDが大発展を遂げたような道具なんだけど、これによって生前のハルとくるみの記憶が少しずつ掘り起こされていく。ロボハルが知らない記憶に触れることでまた少しずつくるみとの距離を縮めていく。生前のハルは生まれつき心臓が弱い上にその手術代としての莫大な借金を背負っている状態で、「金がない」ということに対して異常にコンプレックスを持っていること、小さなアクセサリー関係の店を開こうとしていたくるみと営業方法で衝突してしまったこと。それらがボタン型カメラを通してロボハルやこちら側に記憶の一部として伝わってくる。

あえて誰かの過去回想にせずこうした記録媒体を使ったのはもちろん最後のどんでん返しのためだ。過去回想は必然的に回想者の感情や主観が差し挟まってしまう。そうした余地の無い、俯瞰して見るための道具としてボタン型カメラが生み出されたのだろう。ちょうど良くロボット療法が確立された近未来という設定にも合致する。こうして二人の溝はボタン型カメラにより掘り起こされた過去の記憶により埋まっていき、ロボハルは本物のハルのような存在として、あるいは一人の人間として個性が確立されていく。くるみはそんなロボハルと生きていくことを決める。

ここまでなら異色の恋愛ものという範疇に収まるのだけど、ここから展開を捻ることでミステリ的などんでん返しの要素が付加され物語としては一歩先のヒューマンドラマとしての器の大きさを獲得する。生前のハルの悪友であったリュウを組み込むことで不穏な空気を漂わせることで物語は起承転結の転の部分に差し掛かる。この時リュウを「悪い人間」であるかのように印象付けたのも上手い演出だった。観客はハルの視点寄りで物語を見ることになるので、リュウの行動がハルたちに害を及ぼす存在として認識される。

リュウがハルとくるみの間に近付いてから物語は一気に加速する。リュウたちを拒否したことで追われることになったハルとくるみ。雨の中くるみが逃げている途中で腐敗した橋の板を踏み割って川(?)に転落し、ロボハルがリュウに殴られるところで世界は一転する。ボタン型カメラで意図的に見せられなかった過去の一部分。爆破した飛行機に乗っていて亡くなったのはハルではなくくるみという事実。ロボット療法を依頼したくるみの祖父が「あの子を救ってやってくれ」と言っていたのも伏線で、「子」という言葉で「これはくるみを指しているものだ」とミスリードされるのだが、実際「あの子」はくるみではなくハルを示していた。「くるみを失って茫然自失になったハルは自らをロボットだと思い込む」というのが多少強引だとは思ったが、ロボットという存在が当たり前になった近未来だからという理由で一応納得はできる。

リュウに殴られ、くるみが川に落ちたことで自分がロボットではないこと、自ら封じていた過去の記憶をボタン型カメラではなく自らの脳内から掘り起こすことでハルは全てを思い出す。最初のシーンから今に至るまでの全ての伏線をフラッシュバックのようにして回収する手際は見事だった。決して難しいトリックではなく、少し考えればわかる、あるいは最初の段階で何と無く予想出来る結末なのだけど、そちら側に観客の思考が及ばないように中盤でハルとくるみの触れ合いを描いているのが巧妙だった。

くるみの死、そして自分自身の生と向き合ったハルはくるみのいない世界で生き続け、くるみのいない店で生活をする。それは自己をロボットとして認識していた時のハルの延長であるような行為だが、自身を人間として認識しくるみの死を受け入れたハルは以前のハルとは違っている。ロボットだった頃は料理がまるで出来なかったハルが一人で朝食を作れるようになった。ラストシーンで店の掛札を「営業中」に返したのは終わりではなく続いていくのだということを暗に示していて希望があった。くるみがいないという喪失感を上手く払拭していて作品のラストとしては優秀。

WIT STUDIOに関しては進撃の巨人でだいたいの能力は把握していたんだけど、劇場作品ともなるとTVアニメとは違った映像の作り方をしていて興味深かった。ハルという作品は基本的に動きがあまり無いので、進撃の巨人を比較対象として挙げるのはやや違うような気もするがWIT自体最近できたスタジオで手掛けたのが今のところ進撃の巨人しかないので仕方ない。キャラクタの細やかな動きまでリアルに表現していたのは流石だと思った。牧原亮太郎がそう指示したのかはわからないんだけど、コンテに関してはかなり牧原の意図が汲み取れるものだった。くるみが川に落ちハルが自らに記憶を取り戻すシークエンスはギルティクラウンにおけるコンテを彷彿とさせたし、京都の懐かしさを帯びた街並みや雰囲気を再現する能力は四畳半神話大系で培ったものだろう。

脚本の木皿泉についてはほとんど何も知らなかったんだけど後で『野ブタ』の脚本書いてた人たちだと知って納得した。『野ブタ』において男性の行動は女性を美しく見せることに紐付いている。「ハルがいなくなってからくるみは喜怒哀楽の感情を表に出さなくなった」というロボハルとくるみの出会いから既にその意識は表出している。ロボハルがくるみの元を訪れ少しずつ歩み寄ることでくるみ自身が感情を取り戻していきロボハルとの距離を縮めるという展開は木皿泉の得意とするシナリオだったわけだ。

総じてアニメ制作会社や監督・脚本家・演者の能力がバランス良く発揮された作品だと感じた。これが長編だったらもっと壮大かつ完成度の高い物語になっていたのか、あるいは尺が長くなったことによりバランスが失われてしまったかはわからない。そう考えると「中編」というのは上手い着地地点だと思う。映画の宣伝文句にある「号泣必至」というのは完全に誇張表現なんだけど(まああれで泣く人もいるんだろうけど)、ヒューマンドラマとしては非常に丁寧に作られた好感の持てる映画作品だった。

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