ゆゆ式 第11話 「こーゆー時間」

  • 個人的問題としてもはや死ぬ以外の解決法が見当たらない地獄のような案件を抱えていた時に見たせいか、泣く一歩手前くらいのエモーショナルな感情の昂りを喚起させるような話だった。アニメゆゆ式は高度な映像表現と浄化能力の高さを併せ持つので基本的にいつ見てもそれなりに満足できるのだけど今回は特に琴線に触れるネタが多かった。
  • キャラクタの一見すると意味のないような行動や言動が一つに繋がっていく様子が確認出来るという点で今回は映像では無く中身に重点を置いてる事がわかる。ゆずこと縁のボケに唯が適宜突っ込むという基本パターンを繰り返しながらも他のキャラクタを絡ませることでミニマル・ミュージックのようになることを防ぎ、且つ教室や部室以外にも更衣室や体育館などへの場所移動をすることで新鮮さを保つ。
  • あくまでキャラクタが着替えたり運動したりする部分を一切描かずひたすらキャラの会話を中心にしているのでアイデンティティは維持されている。ゆゆ式は言語感覚に頼ったところが大きいということに自覚的なアニメなので演出も比較的淡白。晴れの日は明確な意味の存在しない光が画面の隅を埋め尽くしているのだけど、今回は雨の日ということであの光はほとんど無くなっている。あの光は映像表現としてかなりレベル高いので出来れば晴れの日が永遠に続いてほしいみたいな願望がある。
  • そういえば「ゆゆ式は時間が経つのが遅い」という感覚を持ってる人がいる理由がわかった。基本的にアニメってだいたいが動き重視のもので(ゼロ年代に差し掛かってから変わってきたけど)、その「行動」ってのは時間当たりの言語的な情報量が少なくて、逆に動きをほとんど削って会話を残した場合は単純に時間当たりの情報量が多い。つまり視覚的(絵的)な情報の密度、あるいはその情報の意味・価値を考慮しなければ今期作品で比較すると『進撃の巨人』よりもこのゆゆ式の方が圧倒的に情報量が多い。
    • で、ゆゆ式のように言語的な情報量が多いよりも進撃の巨人のように視覚的な情報量が多い方が人間の脳は受動的に情報処理出来るので当然処理スピードも早くなる。言語的な情報は脳に蓄積され半ば能動的に処理していくのでスピードは遅くなる。ここに視聴体感時間の差が生まれるわけで、日頃言語的な情報を処理してないとゆゆ式は遅く感じるのだろうなーと推測できる。
  • 泣いても笑っても次回が最終回。ゆゆ式が終わってもおれは生きていられるのだろうか。