ゆゆ式

月並みな言葉で表現すればゆゆ式はおれの生活の一部だった。ライフサイクルの中に「ゆゆ式を見る」ということが組み込まれてからやがて風呂場で無意識に身体や髪の毛を洗うように無意識にゆゆ式を見るようになっていた。微量な意識の介在は作品内に満たされた空気に絆され無意識の中に同化する。おれの生活は一本の木を積み重ねたジェンガのように脆く、その中からゆゆ式が抜けてしまっては正常を保つことが出来ないのでおれはまた来週からゆゆ式を1話から見始める。GJ部の24話目に挑戦している人間も、キルミーベイベー72話目に挑戦している人間もいるのだからゆゆ式だってやろうと思えば無限に続けられる。

さて、ゆゆ式において最も優れていたのは映像表現と特異な言語体系に基づく言語運用であることは間違いない。映像表現に関しては、監督のかおり自らコンテを切った1話が近年のアニメの中では頭2つくらい抜き出た素晴らしさを誇っていてその印象がかなり強いのだけど、橘正紀がコンテを切った6話やかおりがコンテと同時に脚本も担当した10話もかなり印象に残る絵作りだった。ただ1話で映像における既存体系を完全に無視したエキセントリックなコンテを切ってみせたかおりが10話ではしっかり既存体系に基づいたコンテを切ってきたので、良くも悪くも「普通のコンテを切れるようになった」ということで自分の中では一区切りついてしまった。

ゆゆ式における映像表現の中で最も特徴的なのが常に差している赤みがかった光。学校の中を中心に角度や時間を無視した光線が常に視界に入るという、意識すれば異常としか思えない状況が至って普通のように受け入れられるという摩訶不思議な空間を生み出している。ゆゆ式における光に「画面にインパクトを出す」以外の効果は無いわけだが、逆に光に意味を持たせないことによって「意識させない」という難しいハードルを超えてきた。この光はゆずこたちが外出している時にはあまり見受けられないのだけど、それは学校の中とは違って何かしらの視覚的インパクトをもたらすものが存在しているからだ。この使い分けは良いのだけど、1話における「学校の内外構わず光を入れてくる」という貪欲な姿勢も捨て難かった。これは恐らく橘正紀によって矯正されたものと思われる。

もう一つ、ゆゆ式における言語運用の話。基本的にはいわゆる「言葉遊び」と言われる類の方式を採っているのだけど、普通の言葉遊びと違うのは「言葉と言葉の間の脈略が隠されている」という点。実際は「隠されている」のではなく「分かりづらいようになっている」というのが正解かもしれない。とにかくゆゆ式においてキャラクタが発する言葉の数々は無作為に放り投げられ単体でしか意味を成さないように受け取られがちだが、実はしっかり脈略というものは存在している。

そしてそうした言葉が飛び交うキャラクタ同士の会話は他のどの日常系作品とも違う、現実的な生々しさが見え隠れしている。通常の日常系作品の中のキャラクタは「作者が特定の人物に何かを言わせよう」とした結果、何かしらの言葉を発するというパターンが成立しているのだけど、ゆゆ式の場合は作者がキャラクタに思考回路を持たせているので「自分がこう喋ったらこの人はこういう反応をするだろうな」とキャラが考えて言葉を発する。だからゆゆ式は言葉や思考がキャラからキャラへ通じた後に我々の元に届けられる。それが端的に現れているのが1話における唯の「こいつら可愛すぎるだろ」という台詞(思考)。「こいつら可愛すぎるだろ」というのはゆずこと縁に対して思ったことで、視聴者の思考を代弁したわけではない。ゆずこや縁の行動や言動はほとんど唯に向けられていて、それに対して「可愛い」と思ったのは他ならぬ唯だ。視聴者が「可愛い」と思うよりも先に唯が「可愛すぎる」と考えることでこの作品の構造が見えてくる。

ゆゆ式における会話は常に「他の誰か」を意識している。それは凄く現実的だ。気を遣っているというわけではなく、友達同士における「相手の何らかの反応を引き出す」ための会話と言う方が正しいだろうか。そのやり取りが緩くまったりとした雰囲気を形成しつつ、「日常」としてのある種のリアリティを一定に保っている。ゆゆ式はおよそ現実ではあり得ない非日常的なイベントが発生するでもなく、ただひたすらに女子高生の日常の一部を切り取った作品だ。しかし、だからこそゆゆ式は今多くの人間に求められる作品になったのではないか。ゆずこがいて縁がいて唯がいて、時折お母さん先生や相川や岡野や長谷川が顔を出す。この無駄を省いた最小限の空間がゆゆ式ゆゆ式たる所以である。ゆゆ式ゆゆ式だ。他のどんな作品とも替えが効かない。

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