惡の華

まずは『惡の華』というアニメの総括。『惡の華』には非現実的なものは存在しない。魔法も怪物も超能力も出てこない。要素としてのギャグもラブコメも存在しない。ただひたすらに登場人物の人間性を突き詰めている。基本的に物凄くゆっくりとしたペースで物語が進んでいくのだけど、それが等身大の中学生の感じる世界の進むスピードとほぼ同じくらいの速度なのだろうと何となくではあるが実感できた。漫画は読むスピードが読者に委ねられるが、アニメなどの映像作品は視聴スピードが固定されている。体感時間の違いはあれど、現実的な時間においては誰もが皆平等に一定の時の流れの中に身を置くことになる。所謂オタクと呼ばれる人種はこの固定された時間の中で映像から人よりも多くの情報を掴み取ることが至上命題と言っても過言ではないわけだが、『惡の華』は映像そのものの情報よりも映像外における情報のほうが多いという、極めて珍しい「行間」を生かしたアニメだった。

ドラマや映画ならともかく、アニメ作品においてこれほど行間を意識させ、そこに言外の情報を匂わせるというのはあまり見かけない。何故ならアニメーションとは本来「現実では表現し得ないこと」を表現しようとして生まれた映像作品の一種であり、行間を読ませるというのは極めて現実的な行為であるからだ。表そうと思えば何でも表せるアニメで「表さない」というのは倒錯しているようにも思えるが最近ではそういう手法を採るアニメも珍しくない。しかし『惡の華』というアニメは決してそうしたアニメの延長上にあるのではなく、まるで突然変異のように空洞の部分から湧き出てきた、もはやアニメと呼ぶことが適切なのかすら怪しいくらいの作品だった。

惡の華』における唯一の不満は最終回だった。元々4話あたりで「これは中学生編を全て終わらせることは不可能だろ」と思っていたのだけど予想通りだった。しかし中学生編を全て終わらせられないからといって残りの内容を全てダイジェスト方式で最後に詰め込むのは納得出来ない。最後に「第一部 完」の文字が現れたが、正直このアニメはロトスコープを用いている関係で他のアニメ作品の倍以上の金が使われてるので、恐らく2期を作るほどの金は無いと思われる。それならそれで「映像化しない」という方針を採っても良かったはずだ。前述の通りこのアニメは映像化されてない部分にこそ多くの意味が潜んでいて、この方向性は映像化しないという方向と合致するはずだ。なのに何故ここで映像化することに意味を見出して情報を詰め込んでしまったのか、それだけがわからない。

アニメの話終わり。次に本題の『惡の華』という作品との関わり方について。

そもそもおれにとっての『惡の華』は他のファンのそれとは(恐らく)圧倒的に違っている。おれにとっての『惡の華』とは好きな作品のひとつではなく、対峙しいつか倒し乗り越えていくべき存在という謂わば宿敵のような立ち位置だ。『惡の華』についてよく「中二病」などという言葉を用いて語られることがあるがそれは根本的には正しくない。そこを掘り下げると「そもそも中二病の定義とは」というように話がスライドしてしまうので一旦置いておくとして、主な登場人物の春日・仲村・佐伯・常盤の四人とも自分と周囲との間に名状しがたい違和感を抱えていて、仲村を除く三人は各々が違う適応の仕方をするものの現状に苦しんでいる(仲村はそもそも適応できてない)という状態なのだが、これを「中二病」と称するのは間違っている。これは多くの人間が思春期に直面にする共通の壁で、決して特殊なものではないからだ。

そして自分自身もこの壁に直面したことがある。いや、実際のところまだ現在進行形で直面している。多くの人間はこの壁に直面しながらも自身と折り合いを付けるなり克服するなりして壁を乗り越えていく。しかしおれは妥協も克服も出来なかった。未だに肥大化した自我の泥沼に嵌り込んでいる。この壁の最大の問題点は「壁そのものは見えない」ということだ。有り体に言えば「見えない敵と戦う」ということになる。恐らく壁を乗り越えた人間は「自分との戦い」と口にするだろう。だが自分と戦うということは自分の正体と向き合うということであり、向き合うという行為に躊躇ってしまう人間がいるのも事実として横たわっている。おれはまさに躊躇った側の人間であり、自分より一回り以上大きくなった自分と向き合う事が出来なかった。その自責の念は未だに足枷となって絡み付いている。

さて、ここで「自分と戦う事が出来ない人間はどうやって壁を乗り越えていくか」という問題が生じる。答えはひとつ、仮想敵を生み出して倒せばいい。そしておれにとっての仮想敵として現れたのが『惡の華』だった。『惡の華』を好きか嫌いかと問われたら答えるのが難しい。仮想敵として認識した『惡の華』は自分を映す鏡のようなもので、自分に対して好き嫌いを一概に決定することは難しい(面白い・つまらないという基準にも同様のことが言える)。『惡の華』の登場人物には誰一人として感情移入しない。あるいは昔の自分を登場人物に投影するということもない。俯瞰で見なければ全容を掴むことが出来ないからだ。

なのでアニメがロトスコープにより作られたと知った時非常に正しい判断だと感じた。『惡の華』が現実をオブラートに包まずに映し出す鏡ならば、アニメという虚構の空間は現実をオブラートに包んでしまう存在だからで、両者は相容れることはない。だからこそ虚構と現実の境界線を限りなく薄くするようでいて実際は一番現実を生々しく虚構の世界に還元するロトスコープという手法が採られた。これによりアニメは多少の違和感はあれどおおよそそのまま受け止められた。もちろん実写であることに越したことはなかったんだが、アニメでやれと言われた場合あれが最善の策だったことに疑問の余地はない。

この『惡の華』を読み解き自分の正体を正しく認識することでおれは仮想敵としての『惡の華』、そして自分自身の壁を乗り越えたことになる。肥大化しきった自我と決別し、過去を清算し現在の自己を受け入れることが出来る。もう一度言うがおれは『惡の華』については好きとも嫌いとも言えない。いずれ乗り越える存在というだけだ。だからおれは純粋な『惡の華』のファンを羨ましく思う。彼/彼女らは既に見えない壁を乗り越えた人間でありおれより先の場所に居る。『惡の華』が最終回を迎えた時におれは壁を乗り越えなければならなかった。だがそれは叶わなかった。必然的にタイムリミットは原作が終わりを迎える時までに変更される。その時まで命が持続しているかは定かではない。