風立ちぬ

一昨日見て来ました。本来なら見たその日に書くべきだったんだろうけどその日は友人宅に泊まり木曜はひたすら寝てたので今日まで引っ張る形に。取り敢えず30〜40代の人間なら直球でハマると思う。


非常に濃く宮崎駿の色が出た作品。それ故に決して万人向きではない。実在した或る一人の男の人生の一部分を切り取って描いた限りなく現実に近いヒューマンドラマでありながらどこか空想じみた物語でもあり、現実の世界の中に開いた小さな虚構の穴の中に片足を突っ込んでいるという印象だった。政治臭をあまり漂わせずに戦時中の空気を表現できていたあたりは宮崎駿の良心というか、僅かながらも子供(10代)への配慮をした結果なのだろうと推測できる。しかし堀越二郎と里見菜穂子との恋愛模様に関しては幸福な結末を迎えず、ここは現実的だなと思っていたら里見菜穂子は完全なるオリジナルキャラクタだと後に知って、ならばこれは宮崎駿が最大限想像し得る男女交際のドラマ性と現実性の両方を突き詰めた結果出来たシナリオだろうという結論に着地した。

映画は「堀越二郎が少年時代に飛行機の設計士を夢見てから実際にその夢を叶えて零戦を設計し完成させるまで(後日談的なアフターフォロー有り)」というかなりの情報量が二時間程度に凝縮されているのだが、特に「飛行機を設計し現物を作り実際に飛ばす」というプロセスの反復が多い。映画で描かれる堀越二郎の人生は少年時代に夢のなかでイタリアの有名な飛行機設計士であるカプローニと出会い飛行機設計を志すところから始まる。少年時代の描写は淡々としておりあまり山場もないが、二郎が大学生になった直後に関東大震災が起こり事態は一変する。この物語の第一の山場となるシークエンスにしっかりと「里見菜穂子との出会い」という重要なファクターを組み込んでいたのが物語としてはベタだが先の展開が容易になるという点では(菜穂子との再会までは飛行機設計の描写に全て費やせるようになった)良かった。吊り橋効果的な意味合いもあったのかもしれない。ここで「二郎の帽子が風に飛ばされ、菜穂子がそれをキャッチする」という、この先様々な形で反復される描写が初めて現れる。基本的にこの映画はある行動を違う形や景色で反復、もしくはある景色やシーンを違う行動により反復するというパターンが多い。それは端的に時間の経過や登場人物の成長を表せるという利点があるが間延びしてるようにも感じられてしまう。残念ながら長所と短所の両方が作品に現れてしまったが、長所の方が短所を上回っているので結果的にこの試みは成功したと言える。

震災を経て二郎は同期の本庄とともに航空機製造会社(史実を考慮すると恐らく三菱)に入社して本格的に飛行機の設計に着手する。様々な小型機の設計に携わった後に本庄とドイツに渡り様々な航空技術を目の当たりにする。ドイツ(人)の描写に関してのみやや政治的な臭いがするがそれをあまり気にさせない程度にドイツは切り上げ、その後二郎は世界各国を渡り歩いて日本に帰国する。ここら辺の過程は「飛行機」という部分にとにかく的を絞っていて画面自体にそこまでインパクトがないので子供にはやや退屈に感じられるシークエンスかもしれない。しかし二郎が少年時代に抱いていた夢が形になっていき、やがて設計士たちの先頭に立って飛行機作りに携わっていくという膨大なドラマが凝縮されているので物語を最初からしっかり追っていれば決して退屈にも冗長にも感じない。

帰国後に二郎は七試艦上戦闘機の開発における設計主任になったが、開発した機体は飛行実験に失敗し墜落してしまう。ここの飛行機が墜落する場面の作画は序盤の関東大震災における瓦屋根の倒壊に並んで素晴らしい部分だった。物理法則に基づいた機体の動き、それを見ている二郎の表情、無駄のないカット割りなど、とにかく計算された美しさに魅せられる。その構築美とでもいう緻密さは飛行機の設計に似ているため物語とのシンクロも相乗効果として生み出される。この飛行失敗の件もあって二郎は休暇中に長野の軽井沢を訪れ、そこで偶然療養していた菜穂子と再会するわけだが(予告映像における丘の上で絵を描いていた女性を二郎が見上げるシーン)、序盤における菜穂子との出会いからこの再会までの時間経過がいまいち把握しづらいのが難点。二郎は出会った頃からあまり外見の変化は無いが、菜穂子はかなり成長したように見える。身長や声色、そして顔立ち。時が止まったような二郎に対して菜穂子は少女から一人の女性へと変貌を遂げており、これが自らを飛行機設計に捧げた二郎の姿を異質なまでに浮かび上がらせる(声色に関しては庵野の責任が大きい)。まあ初めて出会った時、二郎は20歳で菜穂子が13歳だから成長の伸び代を考えれば当然の描写かもしれない。

震災以後再び出会った二人は二郎の飛ばす紙飛行機を切っ掛けにして距離を縮めていく。ここらへんの古典的ラブロマンスぶりは昭和の臭いを感じさせるが、時代を考えると(当時にしては)逆に珍しいようなものかもしれない。再会の時は「風で飛ばされた菜穂子の日傘を二郎がキャッチする」という構図で、これは震災発生の直前に初めて二人が列車で出会う切っ掛けになった「風で飛ばされた二郎の帽子を菜穂子はキャッチする」というシーンと対になっている。そして紙飛行機のシークエンスでは、最初に二郎が飛ばした紙飛行機を菜穂子がキャッチし、それを菜穂子が飛ばして二郎がキャッチするという構図が出来ていた。二郎と菜穂子においては言葉のキャッチボールよりも物理的なキャッチボールによる意思疎通が多かった。二人の物静かな性格(明確な言及は作中でされていないが台詞の少なさから推察できる)も反映されている。

こうして二人の距離が縮まり結婚に至るのだが、二郎から菜穂子へのプロポーズに関してはさすがに庵野の演技(?)が酷かった。抑揚のない完全棒読みで「結婚してください」と言うくだりはさすがに見ていて居た堪れなくなったが、菜穂子の方の演者が上手かったので何とかカバーできたというところ(ちなみにこの映画を最初から最後まで見ても主人公を演じるのが庵野である必要性が全く感じられなかった)。このプロポーズ直後に菜穂子が結核を患っていることが判明し、菜穂子が結核を治してから結婚をするということになる。しかしこの当時結核という病気は治療法が確立されていない、所謂不治の病として扱われていた。そのため観客はここで「これは世間一般で言うところのハッピーエンドに落ち着かないのだな」と予想できる。まあ「ヒロインが結核を患っている」という設定は徳富蘆花かよと思わず突っ込みそうになってしまったが、堀辰雄の『風立ちぬ』は昭和に出版された作品だし、結核の治療法が確立され不治の病ではなくなったのは70年代に入ってからのことなので、使い古された設定であることは否めないがヒロインが結核を患っているというその設定に不自然さはない。

二郎の仕事もあって菜穂子とは遠距離恋愛という形で二人は交際を続けていたが、ある日突然菜穂子が喀血したことを契機に距離感に変化が生じる。菜穂子は一旦山奥の療養所に移り治療を受ける(当時結核患者は人里から隔離された場所で集団治療される)ものの、自分の残りの命の長さを悟り東京にいる二郎のもとにやってくる。インフォームド・コンセントの概念がないあたり時代を感じさせ、自分の病気を押し通してまで遠い場所から男性の元に向かうというのもいかにも昭和文学というところ。ここらへんの古典的フレーバーは見る人によって受け取り方がだいぶ変わってくると思う。文系、それも日本文学あたりを専攻してる人間は何度も見ているパターンだろうし、そういったものに縁のない人間には新鮮に映るだろう。二人は二郎の上司である黒川夫妻を仲人とし結婚をし、二人は夫婦生活を送る。二郎が病床の妻の元に戻れずほとんどの時間を仕事(飛行機設計)に費やしてるあたりは賛否分かれそうな部分。

結局幸せな夫婦生活は束の間に終わり、菜穂子は自らの病状の悪化を悟って置き手紙を残し1人で療養所に戻る。自己免疫で結核を治しハッピーエンドという都合の良い纏めに走らないのはジブリ作品にしては珍しく現実主義を突き通したという感じだが、そこは宮崎駿が自分の中にあるものを(大衆に向けてではなく)純粋にアウトプットした結果だろう。宮崎駿作品には彼の思想がはっきり表出しているものもいくつかあるが、この『風立ちぬ』はそういう部分よりも、堀越二郎という男の一代記を少量のロマンチシズムを織り交ぜて描くという冒頭で述べたようなヒューマンドラマの色合いが濃く現れた映画だ。そのため菜穂子との恋愛もあくまで彼の人生に内包される物語として紡がれる。最も、二郎の人生において菜穂子は決して飛行機設計に劣る存在ではなかったし、だからこそ菜穂子が最後に置いていった二郎宛の手紙は作中で読まれることがなかった。それを読んでしまえば明確に二郎の中における菜穂子という存在が位置づけられてしまう。黒川夫人の「好きな人に自分の綺麗なところだけ見てもらいたかったんでしょう」という言葉が二郎と菜穂子との恋愛模様を端的に表している。

冒頭で述べたようにこの『風立ちぬ』は非常に濃く宮崎駿の色が出ているのだが、とりわけラストにおける「戦争が終わって荒廃した世界を見る二郎とカプローニの元に菜穂子が訪れて「生きて」と二郎に言う」シークエンスは映画の宣伝文句の中にもある「生きねば」に直結しており、宮崎駿の思想が一番濃く現れた部分である。零戦を生み出したことにより多くの人間が亡くなった事実は変えようがないが、それでもあなたは生きてほしいという菜穂子から二郎への言葉は、菜穂子というフィルターを通した宮崎駿自身の言葉だったように思う。それは二郎個人に向けられたものでもあり、2年前の震災を経て未だに全ての傷を癒し切れていない日本人へのメッセージともとれる。現にとあるテレビ番組で宮崎駿本人が「今も関東大震災の後も同じ」という旨の発言をしていた。「生きねば」というのは他人から強制された義務ではない。二郎自らが決心したことである。現実世界においても人は誰かから強制されて生きるわけではない。『風立ちぬ』は一人の男の生き様を見せることによって「よし自分も生きていこう」と思わせる映画というよりは、昭和の時代の雰囲気と飛行機の開発というロマンを感じられる、とても「物語」らしい物語を楽しむ作品であると思う。不満点は庵野の演技くらい。主題歌になった「ひこうき雲」も直撃世代ではないもののノスタルジーさ満点で堪らない。ここ数年のジブリ作品の中では一番良かった。