たまゆら〜もあぐれっしぶ〜 第7話 「ついに、みんなで来たよ!なので」

  • 嘗て可謬主義を唱えたチャールズ・パースは経験の積み重ねによって知識は修正されることから知識の絶対性を否定したわけだが、たまゆらにもそうした息吹を感じ取れるのはこのアニメが「記憶にない過去を辿る」という「これから経験すること」にスポットを当てているからであって、決して佐藤順一がたまゆらの世界から悪の要素を抜いた結果、善が哲学という形をとった悪に変容したということではない。
  • 汐入という町はぽっての故郷であるが、竹原についても「わたしの故郷だ」とぽってが自覚しているのは竹原という町に精神的な意味での居場所を見出せたからで、それが親友のかおるたちであったり、町の人達であったりする。記憶にない父親の過去を竹原の町中で辿っていくことで思い出を補完し次へと進んでいく。
  • 過去に経験したが今現在明確に自分の中に記憶として存在していないということで、今回は「記憶を取り戻す」という意味合いが強い話だった。線香花火大会という記憶の埒外にあった出来事を再び経験することで朧な記憶は鮮明になっていく。ここでも父親の顔は見えないのだけど、父親と居たという記憶、そしてカメラというファクタを再び用いることで「これから写真を撮っていく意味」を確認できた。
  • 以前きんいろモザイクを視聴していた時にもぼんやりと思っていたのだけど、花火というのはやはり過去の記憶を掘り起こす要素として効果的に作用する。祭りというものを能動的に楽しむのは子供の頃がほとんどだし、今現在主人公が中高生ならば小学生以下の思い出を遡るというのも特に不自然ではない。
  • アニメを社会情勢や哲学や資本主義経済と絡めて話すとどれほど胡散臭さが増すか実験してみたけどこれは確かにきついということがわかったので今回一度きりにします。