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たまゆら〜もあぐれっしぶ〜 最終話 「そして…旅立ちの季節、なので」&総評

普通は「旅立ち」というと別れ、つまり悲しい部分を表にして演出描写することがほとんどなのに対して、このたまゆらというアニメの最終回における旅立ちは新しい出会いや進路に向けての希望を全面的に描いていて、なぜここまで悲しみの感情を振り払うことが出来たのかと考えるとやはりその前の回のラストで朝日を見てかなえが泣き出したシーンがあって、ここで旅立ちに纏わる悲しい部分を大方吐き出していたのだという結論になる。こういうのを完璧なシナリオ構成と言うので横手伊藤あたりはぜひ見習っていただきたい。

ラストで今まで積もり積もってきた父への思いを形にするようなイベント、つまり亡き父親の誕生日祝いをすることでこれまでの話に上手く区切りをつけた。ここから一歩踏み出していくこともやはり一つの旅立ちといえるし、父親への感謝の言葉を家族それぞれが述べるのはそこにそうした意味があるからだと思われる。誕生日はおめでたいものなのに「おめでとう」とは言えず、毎年「ありがとう」という言葉を繰り返す。季節の節目に父親の誕生日が訪れるというのもかなり示唆的。

たまゆらは「いつか皆いなくなってしまう(時間は限られている)」漠然とした不安が父親の死という前提条件によってサブリミナル的に刷り込まれている作品。それは変化の先にある結末であって、変化は時間が経過する度に訪れる避けられない事象である。父親の死を朧げながら経験していることで「自分に近いものがいつかなくなってしまう」ことに主人公であるぽっては自覚のない不安を持っている。だから時間の経過に抗うように、あるいは時間の一部分をを形として留めておくためにカメラを持つ。「たまゆら」は「一瞬」という意味からカメラの存在意義を連想させる素晴らしいタイトルなのだけど、2期ではそうした一瞬を積み重ねて先へ進むという本筋がより強く繊細に表現されていた。それは父親との死別を1期で乗り越えたぽってが、かなえという親しい人との別れを新しく経験したからでもある。

ぽってと母親が訪れたプロポーズの場所にカメラを持っていけなかったのはアクシデントとか関係なくて、単純にシナリオとして持って行く必要が無かったからだ。一瞬を切り取って時間の経過に抗うカメラの役割は、「父親にプロポーズされた」という過去の思い出の場所においては使う必要がない。それはすでに母親の中で記憶としてその時間が堆積しているからだ。カメラはぽって自身が経験した一瞬を記憶と記録として留めておくためにある。

たまゆらは父親の死という事前設定がありながら全くシリアスにならない、あらゆる毒素が排除される奇跡的なバランスで成立していて、この完全な無菌室のような世界を受容できるかどうかで評価が分かれる作品だろう。もしかしたらどこかに人間の悪意があるのかもしれないが、それは意図的に描写しないように徹底されている。それは現実の人間が直接出てくるドラマでは出来ない行為で、これもまたアニメーションという媒体でしか作り得ない作品だ。