僕らはみんな河合荘 第1話 「たとえば」

恋愛と一口に言っても甘酸っぱさを思い浮かべる人やトラウマを植え付けられた人や時間の無駄だと一蹴する人など、人によってイメージが様々に存在するだろうし、結論から言えばそのどれもが正解でもあるし不正解でもある。形のないものに定義を施すのは結局徒労に終わるし、恋愛といういかにも心情と密接に結び付いている営為について紐解いていくと最終的に生殖という本能に辿り着いてしまうので、その手前の部分、すなわち異性のコミュニケーションの在り方までに留めておかなければならない。

この『僕らはみんな河合荘』という作品における恋愛模様はとにかく明治時代かよと突っ込みたくなるほど古風。主人公もヒロインも奥手で自分の気持ちを伝えることに四苦八苦して煩悶している。そんな古風な二人とは対照的な、いかにも現代風なキャラクタが脇を固めることで化学反応が生じる。古風な二人の織り成すベタな恋愛劇にコミカルかつ人情と下ネタに溢れた今風のキャラクタたちが介入することで、物語は大いに捻れながらも最終的にはど真ん中に位置しているミットの中に収まる。奇抜なイベントに頼らず、キャラクタの心情を丁寧に紐解くことで生み出された緩やかな時間と緩やかな物語、我々はそれに身を任せるだけでいい。細部まで計算され尽くしているというよりは、キャラクタに命を吹き込んだことで物語が自然に動いている、といったほうが正しいだろう。

前述した通り、河合荘の住人は主人公とヒロイン以外みんな一癖あり、特におよそ普通に生活しているだけでは中々出会えないであろうシロのフレキシブルな個性は作中でも異彩を放っている。麻弓や彩花といったいかにも現代的でどこかにいそうなキャラクタも、その表層を剥げば個性的な部分が見えてくる。管理人という全ての上に立つ存在である住子はこの物語の清涼剤だ。常識人としての役割を果たしながらも管理人としてではなく年長者として河合荘の住人を見守っている。大人になり損ねた子供たちが多い河合荘を独立した存在として成り立たせるにはこうした親代わりの人物が必要だった。

ヒロインである律子は本が好きで他人との意思疎通が苦手といういかにもレトロな女性だが、それに関して周りの人間は「何だかおかしい」という感情を多かれ少なかれ抱いている。これが仮に明治大正期に執筆された小説だとしたら、彼女はありがちな人間として処理され、「周りの目」という第三者的視点が挿入されることはなかったはずだ。つまり『河合荘』におけるシナリオとは単純な時代のアップデートではなく、古典的な恋愛劇を現代の作法に当てはめて新鮮な状態で古典を見せる、というルネサンスに近いものがある。我々が『河合荘』を読んでいる/見ている時に古臭さを感じないのは作者が意図的に臭いを消してあくまで現代劇として提示しているからだ。

主人公の宇佐はそんなヒロイン律子から本を貸してもらうことで徐々に距離を縮めていく。本の貸し借りによるコミュニケーションなどこの時代にあり得るのかという疑問は確かにあるが、それも話が進むにつれて霧消する。話が進むと「どのくらいのペースで物語が進行していくのか」ということが掴めてくるからだ。なにせメールアドレスの交換が原作4巻になるまで行われないというスローペースなので、これを把握した上で物語を追っていれば二人のもどかしい距離に煩悶する必要もない。

この作品は原作漫画の時点で既に完成されていたため、アニメ化というステップにはあまり、というかほとんど肯定的になれなかった。漫画における数々の美しい表現がアニメーションになると損なわれるのでは、という危惧があって、キャラクターデザインを見た瞬間にその危惧が現実のものになったと落胆した。この作品のキャラデザにしてはあまりに色遣いが濃い。恋と掛けてるとかそういう話ではさすがにないだろうし、ここまで漫画から連想されるグラデーションと離れてくるとやはり身構えてしまう。それに伴ってやや過剰なギャグアニメ的演出も作風にあまり合致していないように感じる。特に文字演出。思いを中々伝えられない奥手の二人が主役なのに何でもかんでも文字にして画面に映し出すのは明らかに悪手。行間を読ませる隙すら与えないのは原作の良さを潰しかねない。

あとはキャラクタの声。散々言ってきたが河合律子の声はもっと慎重に選ぶべきだった。必ずこの世の中のどこかにもっと相応しい声を持った役者がいたはずだ。この三点だけがとにかく心残りでならない。それ以外は良くできていた。