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たまこラブストーリー

2ヶ月前に劇場版タイバニを見て「2014年最高傑作!!!!!」と言ってたのは記憶に新しいわけですが、そのたった2ヶ月後に傑作タイバニに比肩する傑作映画が現れるとは思いもしませんでした。というわけで今回は初任給使って観に行った『たまこラブストーリー』のネタバレあり雑感です。

(ちなみに見終わった後にパンフレット買ったの5年ぶりのことでした)
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正直なところこれはもう最高という以外の評価のしようがない。まさかこのおれが恋愛をテーマに扱った作品に泣かされるとは思わなかった。少女漫画にありがちな女性に都合の良い内容でも、少年漫画にありがちな男性に都合の良い内容でもない。奥手な男子高生と鈍感な女子高生が繰り広げる、極めてフラットな視点から生まれた青春恋愛群像劇。『けいおん!』においてさり気なく女子高生のリアルを見せていたように、子供でもないが大人にもなりきれていない、思春期の少年少女を描く能力が業界内でも突出している山田尚子だからこそ生み出せた作品だろう。各々の心情の機微を鮮やかに映し出し繊細に扱う様子は芸術の域に達しているし、クラスメイトから商店街の人たちまで様々なキャラクタを出しつつも、メインとなるたまこ・もち蔵をテレビアニメとは比べ物にならないほど深く掘り下げている。3年前の劇場版けいおんといいこの作品といい、山田尚子はとにかく劇場で映える構図や台詞回しを扱うことに長けているので京アニ劇場作品を専門に監督やってほしい。

テレビアニメでは北白川たまこを中心としつつも彼女を取り巻く環境やデラ・モチマッヅィなど異国の住人にスポットが当てられ、たまこ本人の掘り下げはあまり行われなかったが、劇場版ではたまこラブストーリーというタイトルに相応しく、北白川たまこという人物を中心に据えて物語が展開していく。高校生という多感な時期を意識させると同時に一種の寂寥感をも感じさせるコンテでは山田尚子の能力が遺憾無く発揮されているし、キャラクタの何気ない動作にも繊細さが見受けられるのは京都アニメーションの本領だろう。アニメーションならではの演出(小川太一はやはり最高だった)を織り込みつつ脚本は現実感を重視しており、両者の絶巧なバランス感覚が実写映画はもちろん単純なアニメ映画とも違う独特な空気を醸成している。

また、もち蔵という名前からして笑いを取るために生まれてきたようなキャラクタをテレビアニメではぞんざいに扱ってきたが、この『たまこラブストーリー』ではたまこに恋する男子高校生としてしっかり主役を張っている。ひたすら一方通行のうえ伝わりもしなかったもち蔵からたまこへの恋愛感情だが、もち蔵が東京の大学に進学することを決め、そのことを伝えるのと同時にたまこに気持ちを告白してから事態は一変する。たまこはもち蔵との付き合い方や変わっていく関係性に戸惑うようになる。単なる異性の幼馴染がふとしたきっかけで恋人になる、このテンプレートは実際のところ現実的なのかという問題はさておき、たまこはようやくもち蔵を単なる幼馴染ではなく異性として見るようになった。

もち蔵といつも通り接することが出来なくなってから、たまこはバトン部の活動も家で餅を作ることも侭ならなくなる。顔を合わせることも困難になり、いつも見ていた商店街の景色までも違って見えてしまう。ここに至るまで丹念に「日常」を描いていたからこそ、観客にもたまこの目に映る景色が変化していることが伝わる。

前述のように、テレビアニメでは北白川たまこをメインに彼女を取り巻く環境や他の登場人物を描いていたが、劇場版では周りの環境や人物を描くことで北白川たまこ・大路もち蔵という人間を浮き彫りにしている。なのでたまこの視点における景色が変わると人々の様子も変わってくる。そうして否応無しに変化がもたらされることで、テレビアニメよりもみどりやかんな、史織といったたまこの友人たちがどのような立ち位置でどのようにたまこと接しているかが分かりやすくなった。特に史織についてはこの映画のおかげでだいぶ人間性がはっきりしていた。引っ込み思案だった史織が海外へ留学するという決意をしたことも、たまこがもち蔵に返事をする後押しとなった。

あとはもち蔵の他にもう一人、たまこへ特別な感情を抱く同じバトン部のみどりも重要な役割を果たしている。みどりがたまこに抱く感情は決して同性愛のそれではなく、物心つく頃からたまこと一緒にいたことにより生まれた庇護欲に近いものだった。たまこともち蔵の関係性が変化することは、みどりの手の届くところからたまこが離れていくことで、それはみどりにとっては喜ばしくはないことだ。しかしたまこを自分の手の届くところに置いておく権利はもちろん有しておらず、だからこそみどりはもち蔵を焚き付けたこと・結果的にもち蔵がたまこに告白してたまこの心が揺れ始めたことに関して自己嫌悪する。最後にみどりがたまこについた嘘はそうした一連への贖罪でもあり、始めてたまこが自分の手の届かないところで幸せになるように後押しするものだった。

たまこはもち蔵に気持ちを伝えられてからずっと戸惑って平静を失っていたが、たまこの父が母に贈った歌の返事として、母が父へ贈った歌をカセットテープに録音していたことを知り、「伝えられた気持ちにはしっかり答えなければいけない」と気付く。CDではなくカセットテープというところがミソで、カセットテープのA面B面という区分を利用した(今までたまこはA面に録音された父親の歌しか聴いていなかった)鮮やかな伏線回収だった。そもそも映画ではテレビアニメ以上に「たまこの母親が亡くなっている」ということを意識させるのだが、たまこの天真爛漫な性格と商店街の大らかな空気が必要以上に話を重くさせない。「母親が亡くなったこと」よりも、それ以前の「母親が父親と結ばれたこと」を前面に出すことで、カセットテープに録音された歌が効果的になる。

そしてカセットテープのようにこの映画も大きく二つに区分されていて、前半ではもち蔵の視点がメインだったが、後半になると視点のバトンはたまこに渡される。そう、この映画ではバトンも重要な役割を果たしていた。たまこがバトン部であることはもちろん、「誰かから誰かへ渡す」という意味合いでもバトンが効果的だった。たまこは大会のためにいつも以上にバトンの練習をするが、上に放り投げたバトンをキャッチすることができない。これはもち蔵の気持ちを上手く受け入れられなかったことを暗示しているが、「もち蔵に告白の返事をする」と決めたあとの大会本番ではしっかりとバトンをキャッチできた。

さらに糸電話。古風でありロマンチックなこのアイテムはたまこともち蔵の気持ちを繋ぐ非常に重要なファクタだった。このご時世に携帯ではなく糸電話を使うという事実を自然に見せるため、作中でたまこともち蔵は糸電話以外の手段で連絡を取り合わない。が、かといって時代背景が古臭いとは感じさせない。携帯がない時代においては恋人同士の待ち合わせ・すれ違いなどの物語が生み出せたが、今では携帯があることでいつでもどこでも手軽に連絡を取り合える。この便利だが窮屈なアイテムを取り除くことで逆説的にたまこラブストーリーという作品のリアリティが高まった。糸電話の糸がもう既に繋がりとして象徴的だが、たまこが糸電話を通じてもち蔵だけの耳に伝わるように自分の気持ちを伝えるラストシーンはその密度に美しささえ感じさせる。

アニメーション的な見所としてはやはり脚だろうか。山田尚子はとにかく女子高生の脚を全くフェティシズムを感じさせずに映し出す。歩いている脚、もつれる脚、立ち止まる脚。その全てが日常から非日常までを表現する要素のひとつとして機能している。劇場版けいおんのラストでも山田尚子は脚だけで寂寥感を表現していたが、今回もまた感情の移ろいから高校卒業が迫っているという限られた時間まで、青春の総てをつぎ込んだような包括的表現を見せてくれる。

総じて昨今では珍しいくらい真正面から恋愛というものを描いた作品だった。たまこという愛すべき商店街のマスコットキャラのような存在が、1人の恋する女子高生として映ったのは新鮮だったし、テレビアニメでは単なるギャグ要員だったもち蔵が今までの自分を払拭するかのように吹っ切れて堂々とたまこに告白するシーンも印象的だった。気持ちのすれ違いではなく気持ちの伝え方についてフォーカスしつつも、日常アニメのような緩やかな空気が根底にあるので息苦しくなることはない。そして注意して見ると、たまこが飛び石を渡るシーンやコロッケを食べるシーンなど、優れた作画を発見できる。実写の作法を基本にしつつもアニメでしか表現できない箇所を織り交ぜていくことで、結果的に作品としての間口が広くなった。普段アニメを見ない人から沢山のアニメを見ている人まで満足させられる優れたアニメーション映画だった。