GJ部@

妄想と過度な深読みにより何もないところに何かしらの意味を付加できる視聴者層を完全に狙って作られたGJ部もこれで本当に終わりらしい。物語性を捨て去り日常の持続性にフォーカスしている作品と見せかけて、「卒業」という時間の流れの果てに起こり得るイベントをやって明確な区切りを示したテレビアニメ最終回のことを念頭に置けば、この特別編のラストもある程度予想できるだろう。

とにかく内容は皆無、空洞に等しいのにその空洞にはしっかりとした存在理由があって、さながらドーナツの穴のようなそれは確実に視聴者の隙間に入り込んで肥大化していく。「GJ部に中毒性がある」という言説はつまり、時間の経過により生まれた物語性と特別なことが起こらない日常の無味乾燥さを混ぜ合わせた「日常系アニメの局地」が逆説的に極めて現実に近付いてしまったがために起こった、一種のシンクロと言える現象から引き起こされたものだと思うのだが、この特別編ではそうした日常から身を引いて海外進出したり、卒業後の風景を描いたり、明らかに今までの作風とは異なっている。

とはいえ前半の「GJ部NYへ行く」ではNYという場所に舞台を移しつつも、結局NYの街自体には一歩も出ず、今までと違うのは「部室の窓から見える景色がNY」というだけでやっていることはテレビアニメの時と何一つ変わっていない。どこに行こうが結局部活をやるだけ、というのはGJ部の頑なな姿勢を端的に表している。過去回想も織り込みつつ、ロスタイムと銘打っているようにテレビアニメの内容を裏切らない延長戦的な内容だった。

問題なのは後半の「絆の名はGJ部」で、こちらはGJ部初期メンバーのうち天使真央を含めた3人が卒業してからの話、つまり普通なら描かれない、最終回のその後に当たる。いきなり部室でも学校でもなくどこなのかよくわからない街中から話がスタートする様子はGJ部というアニメにしてはあまりにも異質だ。このアニメは部室から出ないことを一種のアイデンティティとしていた節もあったので、それを破ったことはダイレクトに「本編がすでに終わっている」という事実を伝えてくる。

そうして街中からスタートした物語はどこか歪な状態で転がっていき、気付けば強引に学校の中の部室に舞台が移動している。常に取り止めのない話だけで成立していたGJ部とは思えないくらい、キャラクタの行動や台詞ひとつひとつにしっかりとした意味がある。内容の充実度という点ではテレビアニメを遥かに上回っているのだが、内容が充実しているからこそ物語性が強くなり、そのうち終わりがやってくるという事実も強調される。

単なる日常系アニメと一線を画する独特の空気はテレビアニメ全12話の積み重ねの産物であるし、それがあったからこそ特別編で今までの型から外れても作品の本質は揺るがなかった。何をするのかさえよく分からない部活でありながらしっかりとした部活ものとして成立していたのは素直に評価できる点だし、何より有象無象に埋れてもおかしくなかった原作がここまでの地位にのし上がったのはアニメの功績が大きい。日常を永遠と錯覚させるような作品が乱立している中、終わりがあるからこそ成り立っている日常の一瞬一瞬を丁寧に描いてみせたGJ部が今尚多くの人間から愛されているのは必然だった。