一週間フレンズ。

仮に自分が一週間ごとに友人とそれに関連した一切の記憶が無くなるという状態に陥ってしまった場合、まったくもって正気でいられる自信がないが、この作品の主役である藤宮香織という女子高生はそんな状態のまま今日まで生きていて、人間どうしようもない状態になってしまった時は達観してしまうのだろうかと考えてしまう。そして藤宮香織はどこまでも客観的に物を語る。記憶が消えてしまうことを淡々とした口調で主人公の長谷祐樹に語る。彼は藤宮香織に対して「友達になりたい」という思いを抱いて近付くが、それはどこからどう見ても下心丸見え、というよりは自分のために藤宮香織と友達になりたいように見える。ここらへんが「女々しい」と評される所以だろう。

この長谷の主人公らしからぬ女々しさを許容できるかどうかでこのアニメに対する評価も自ずと決まってくる。あるいはこの女々しさが気にならないほど藤宮香織という人間に魅力を感じられるかどうかだ。最初は長谷に感じられた人間臭さが彼女からはほとんど感じられず、それが一部から天使天使と言われてる理由なのかと考えたが、回を重ね僅かながらも長谷との記憶を積み重ねていくごとに藤宮香織は人間らしさを獲得していった。人や物に何の興味も示さなかった藤宮香織は長谷と関わることで様々なものに夢中になる。他人との距離感は記憶消去のせいで掴みかねていたようだが、脇を桐生将吾という藤宮香織よりも人間らしさを感じられないキャラクタで固めたことで、より一層藤宮香織の人間らしさが強調された。

アニメの淡い色彩設計に呼応するかのようにシナリオも淡く掴み所がない。藤宮香織という人間の儚さがそうさせるのかもしれないが、このアニメは外部から何者かが干渉してしまえばあっという間に崩れてしまいそうなほど脆く見える。その脆さを支えているのが前述の将吾であったり、藤宮香織の初めての女友達として最後までブレない山岸沙希であったりする。この2人が何事にも動じない性格なのはメインの2人がとにかくブレまくる人間だからだ。長谷は最初から、藤宮香織は4話頃から根本が揺れ動いている。しかし最後には沙希でさえ現実問題の渦に飲み込まれて自我を保てなくなる。つまりこの作品において最も必要不可欠なキャラクタは桐生将吾だったということだ。

自分のことを一切勘定に入れず純粋に他人の幸せを願える人間なんてこの世に存在しないわけで、その事実は各話で小出しにされてくるが、表に出そうになるたびに長谷と藤宮香織の間に何らかの問題が発生してうやむやになってきた。そのツケがラストにおける2人のすれ違いという形でやってくる。長谷は藤宮香織にたくさんの友人ができて幸せになれるなら自分はどうなってもいいというようなことを言っていたが、その虚勢は最初から将吾に見抜かれていたし、結果的にその皺寄せが断絶に繋がる前に長谷は「誰かが藤宮香織と友達になればいい」ではなく「自分が藤宮香織と友達になりたい」ということを伝える。

こんな2人の間に恋愛関係がまったく構築されないのは藤宮香織の記憶が消去されていくせいだというのは言うまでもないが、長谷が思う「藤宮香織と友達になりたい」という願望は恋愛感情に根差しているのではないかと思われる部分が本編でよく見かけられる。が、タイトルにフレンズと冠している以上、友人を超えた関係になってしまえば話が終わってしまう。だから恋愛関係に発展しそうなペアとして脇の将吾と沙希を当てがっているのだけど、これは別にそうする必要性を感じられなかったのであまり評価できない。むしろ長谷と藤宮香織の2人の距離を近付けて最終的に恋人になったから記憶は消えない(藤宮香織が消去する記憶は友人のものに限られる)、というオチのほうがストレートで良かった気がする。まあそもそもこの作品における「友達」の定義が曖昧なので、どこからが友人でどこまでが友人でないか、という線引きを将吾だけでなく他のキャラクタも動員して確認してほしかった。

最終回らしくない最終回とか根本的なことは何も解決してないとかまず病院行けとか、まあ積もる話は色々あるが、おれもこうして最後まで見たはずのアニメを一週間で忘れてしまうということが多々あるので、そういう意味では誰もが藤宮香織になれるという雑な話で締めようと思う。