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ソードアート・オンライン Ⅱ

我々視聴者にとっての「アニメにおける現実感」とは何なのだろうと考える。現実に近しい感覚をアニメ視聴により得られるとするならそれはもう現実と変わらないような気もするし、途方もなく現実離れした話は現実とかけ離れているがゆえに脳が認識せず受け入れられないのでは、とも思う。つまりは適度な距離感。ほどほどにリアルでほどほどにフィクションとしての体裁を保っていればよい。日常という概念が崩壊したゼロ年代からは日常系と呼ばれる作品が台頭してきた。あれはしかし日常系というカテゴリとは裏腹に、我々の日常とはかけ離れた理想郷、「こうあってほしかった、こんな日々を過ごしたかった」という意味において、ファンタジーやラブコメやSFやミステリやホラーよりもフィクションに近いと言えるだろう。フィクションがフィクションであるためには現実に即した土壌を有していながら現実にはあり得ないエッセンスを加えなければならない。


そんな中で、ソードアート・オンラインという作品は現実とゲームの境界線を無くそうと試みた、非常に現代らしいテーマを持っていた作品だった。技術の進歩によりバーチャル空間は現実の世界と密接に結びつき、インターネットはもはや片手に収まり簡単に持ち運びできるようになった。それはゲームも同じこと。バカでかい筐体が一世を風靡してから時は流れ、家庭用ゲーム機から携帯ゲーム機へ、そしてソーシャルゲームへ。便利さが追い求められる時代においてゲームが手軽さという方面で進化を遂げるのは必然だった。極端に単純化されたゲームや財力がモノを言うゲームなどにかつてのゲーマーは噛み付き、こんなものはゲームではないと叫ぶ。ではヘッドギアを装着して、仮想世界へフルダイブし、自分自身がゲームの中に飛び込むこのソードアート・オンラインというゲームはどうだろう。これはゲームだと言えるのだろうか。


ソードアート・オンラインは1期でゲームと現実を密接にリンクさせた。ゲームでの死は現実の死に直結する。文字通り命懸けの闘い。そして2期ではそれと逆のことを行った。すなわち現実世界での死がゲームでの死に繋がる、ということだ。それはファントム・バレット編でもマザーズ・ロザリオ編でも同じこと。特にマザーズ・ロザリオ編は殊更に命というものを様々な視点から描こうとする。末期患者が現実で苦しい闘病生活を送る一方で、ゲームでは最強の剣士として名を馳せていて、命とは、人生とは、人と人との繋がりは何なのかという根源的な問いへと潜り込む。はっきりいって現実はゲームではないしゲームは現実にはなり得ない。同一視することも混同することも間違っているが、現実の世界では見えなかったものをゲームの世界で見つける、という方法論は決して間違ってはいない。それはゲームという世界でしか出来ないことだ。今期放送されている『ログ・ホライズン』のウィリアムもそれと同じことを述べている。このアニメの最終回でもキリトこと桐ヶ谷和人は「仮想世界と現実は、近付けば近付くほど理想的な未来が来るものだと思っていた。でも、その境界が曖昧になればなるほど人を惑わせることもある」という答えに辿り着いたし、それに対して明日奈が「でも、それで救われる人もたくさんいる」と答えたのもまた真実だ。いつだってこのアニメはその境界線を探りながら人間の本質へ迫ろうとした。


そういう意味では、最終回においてユウキが亡くなってしまったのは非常に現実的な結果だった。御都合主義のハッピーエンドに逃げることをせず、現実を見据えたうえで命とは何なのかを問いかける。明日奈と母親との進路をめぐる確執も、ファントム・バレット編におけるシノンのトラウマもそうだ。この作品は結局どこまでいってもリアルを突き詰めているのだ。それは題材となるゲームから最も遠く離れた行為のようで実は一番近かった、というのは皮肉だが、こうして生まれたソードアート・オンラインという作品(原作小説)は売れに売れまくった。時代と向き合いながら迎合することなく作者自らが抱き続けた命題を探求する姿勢は評価されるべきだろう。箸休めとしてのキャリバー編も上手く効いていた。1期の頃よりもテーマが明確になり物語全体がよく見渡せるようになった。ファントム・バレット編はやや冗長に感じられる部分はあったものの、全体的には1期よりも良く出来ていたように思う。現実は現実でしかないが、ゲームという視点を借りることで今まで見えなかった道が拓けることもある。教訓めいた物語ではあったものの説教臭くはなかったのが2期成功の最大の要因だろうか。