2014年秋期アニメ総括

年の瀬にアニメのまとめ記事書くというこの絶妙な背徳感が良い。おれは今後も好き勝手生きていくのだ。好き勝手生きていけない世界ならわざわざ生まれてきた意味が無いじゃないですか。おれはやりたいことをやるのだ。やりたいことをやるから年末にこんなことをしているのだ。もう死ぬしかない。今のところ来年楽しみなことが何一つないので誰か来年の1月末までに現金で1億ほどください。「あ、わたし1億ならあげてもいいですよ!!!」という心の広い方、お待ちしています。


いつもの。


評価方法

・評価ポイントは「ストーリー」「キャラクター」「演出」「作画」「音楽(OP・ED含む)」の5つ。各10点満点
・総合評価(ランク)は「SSS」「SS」「S」「A」「B」「C」「D」「E」「F」「Z」とする(各説明は以下参照)

「SSS」~生涯愛せる、墓場まで持って行きたい作品
「SS」~アニメの金字塔レベルの作品
「S」~何度観ても面白いと思える名作
「A」~傑作
「B」~秀作
「C」~良作
「D」~凡作
「E」~駄作
「F」~超駄作
「Z」~黒歴史


テラフォーマーズ

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ストーリー 7
キャラクター 8
演出 5
作画 6
音楽 7
総合得点 33点
総合評価 C

おそらく分割2クールを想定しているはずなので、現状適切な評価を下すのは難しい。しかしアニメ化に成功しているかと問われるとお世辞にもイエスとは言えず、過度な規制と過剰なナレーションが持ち味である大々的なバトルを阻害していた。監督である浜崎博嗣の持ち味が上手く活かせなかったのも苦しいところ。仮に浜崎博嗣が100パーセントの力を出せる環境が整っていたなら文句なしの名作に仕上がった可能性も充分にある。とはいえ続編があるならまだ逆転の可能性もあるわけだ。

このアニメに感じる物足りなさというものは基本的に原作の完成度の高さゆえに沸き起こるものであり、アニメとしてそれは些か不憫ではあるが、原作付きのアニメというのは大まかに分けて、原作を超えようとするか原作とは違った解釈・視点から新しいものを生み出すかの2パターンのいずれかでしか制作されない。テラフォーマーズは原作がもう完成されているのでそれを超えるためには作画・演出・音楽に相当な力を入れないといけない。音楽は悪くなかったのだが、作画と演出が原作の力強い筆致と比較するとどうしても迫力に欠けた。

しかしアドルフの最期は原作とはまた違った、どこか静謐で神聖な印象を新たに受けたのでこれだけでもアニメ見た元は取れたという感じだ。今尚テラフォーマーズでもっとも好きなキャラクタはアドルフ・ラインハルトなので、彼の活躍する話に作画も演出も音楽も全力を注いでくれたというだけでわりと満足している。

これ以上ないくらいの「俺たちの闘いはこれからだ」という構図で終わったのがおもしろかったといえば面白かったが、これで本当に続きがなかったら悲しすぎるので何とかして続きを作ってほしい。



デンキ街の本屋さん

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ストーリー 3
キャラクター 6
演出 7
作画 6
音楽 8
総合得点 30点
総合評価 C

非常に評価が難しいタイプのアニメだった。ラブコメというジャンルではあるのだがキャラデザや舞台設定のせいであまりラブコメ作品に見えないし、かといってパンチの効いたギャグアニメというわけでもない、つまりは根っこが全然見えない作品なのだ。何がやりたいのか、どんなことを伝えたいのか、最終的にどんな場所を目指しているのか、それらが見えてこない。そもそも主人公も定まっていない。群像劇のパターンに近いのかもしれない。コミックうまのほねは宛らグランドホテルというわけだ。しかし一連のストーリーを見ているとコミックうまのほねが舞台である必然性があまり感じられなかった。

各キャラクタがあだ名で呼ばれることにより生まれる匿名性や内輪感を上手く活かせていた話と全く活かせていなかった話が混在していて、両者の間に関連性があまりないのが希望でもあり絶望でもある。シリーズものなのに(キャラクタの関係性以外)ほとんどエピソード同士の繋がりが見受けられないのは特徴的だ。1話の中に2〜4個のエピソードを詰め込んでおきながらそれらにも関連性がないのでヤマノススメセカンドシーズンよりも視聴体感時間が短かった。だからといってその時間が濃密だったかといえばそうでもなく、竹の中を流れるそうめんが目の前をただ通り過ぎていくのを無感情で眺めていた小学2年生の夏を思い出すつらさがあったりなどした。

ネットスラングなどのパロディが多々見受けられたのだが、おれは電子の海に放流された情報を現実世界に持ち込む行為ほど寒くて下品なものはないと思っているので今後おれの目の前でネットスラングを用いることはどうか止めていただきたい。それはともかく、パロディというのは元ネタの強度あってこそ成立するものなので、ただ情報が広範囲に渡って共有されたにすぎないネットスラングというものは、実際に誰かが声に出して空気を震わせ鼓膜に伝わってくると背筋が寒くなるのだ。文字として視覚から受容することと音を持った言葉として聴覚から受容するのとでは全く違う意味を持ってしまうのだ、ということを制作陣には理解してもらいたい。

あと最終回のEDで流れていた漫画一挙紹介に関して、あれが実際に存在する漫画をモチーフにして作られたものなのか気になって調べたのだが明確な答えが得られないので知っている方がいたら教えてください。このアニメは本屋さんと銘打っておきながら、実際に扱っているものはほぼ漫画とラノベという現実のとらのあなを忠実にモデルとした舞台を作ったのに、そこで扱われている漫画はオリジナルが半分以上という権利問題が否が応でも見え隠れするねじれ構造を有しているので、どうにも現実と地続きの世界だと認識できない。フィクションはフィクションでしかないという当たり前の事実は小林ゆうことエロ本Gメンが証明してくれたが。そういえば第11話における少女時代のエロ本Gメンの泣き声が完全に超音波と化しており久しぶりに目眩吐き気などを催した。小林ゆうにこんな声を任せてはいけない。少年役を演じれば他の追随を許さないのだからそちらのフィールドで王座へ登り詰めればいい。わざわざ下界まで降りてくる必要はないのだ。エロ本と同様に棲み分けというものを今一度考えていただきたい。



甘城ブリリアントパーク

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ストーリー 9
キャラクター 9
演出 8
作画 9
音楽 8
総合得点 43点
総合評価 A

世の中には理屈抜きに感情に直接的に訴えかけてくる非常にエモーショナルな作品が存在していて、この甘城ブリリアントパークという作品は紛れもなくそれだ。狭まる視野など瑣末な問題であると言わんばかりの大々的な演出や勢いを重視した会話劇。それが京都アニメーションの持ち味かつ最大の武器である繊細な絵作りと見事に噛み合い、繊細でありながら大胆な一流オーケストラの演奏を鑑賞している感覚に浸れる。主人公の可児江西也がテーマパークを経営するという点で経済シミュレーションゲームのような印象があるが、実際のところ経営面における駆け引きは頭より体を使って解決することが多く、ここらへんが前述したエモーショナルな部分を際立たせている。

テーマパーク経営に関して、「財政再建」ではなく「入場者確保」という目標が設定されていることで金銭面のやりくりよりもとにかく「人を集めるための工夫」が求められる。そのため派手なショーやイベントの開催などがメインになり、必然的にストーリーが華やかで賑々しくなる。その一方でラティファにかけられた呪いというパーク経営とは別の問題も立ち上がってきて、集団と個人という対比構造が生まれ、動と静のコントラストがはっきりと浮かび上がる。ラティファの呪いについての明確な対処法が一切明かされないのはアンフェアな感じもするが、当面の目標はテーマパークの存続だったということを考えると、ラティファの呪いというものは(アニメ)最終回のための布石だったのかもしれない。

人間よりもマスコットキャラクタのほうが多い夢の国のような世界の中で、しっかり現実を見据えて集客数を伸ばそうと苦心する可児江西也とその世界の波に飲まれながら抜け出そうともがく千斗いすず、両者がそれぞれ独立するのではなくツーマンセルで動いていたのがミソで、境遇は違えど主義思想は似ているこの二人が起点になることで徐々に集客数が増えていく過程は面白かった。ただ実力で解決したというより他のキャスト陣の個性によるところが大きいので、二人は監督と補佐という立場に近いだろう。なので物語を主観的に映し出すことも客観的に俯瞰することも可能だった。

モッフル、マカロン、ティラミーなどとにかく個性的なキャラクタを上手くテーマパークという舞台を利用して纏め上げた賀東招二の手腕は流石と言うほかないし、これだけ出来るのならフルメタ続編を京アニでやってくれという思いが募るばかりだ。最後の方はアニメオリジナルの展開らしいので甘ブリ2期というのはちょっと無理っぽいがフルメタは出来るだろ…おれが生を全うする前に作ってくれ…



selector spread WIXOSS

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ストーリー 5
キャラクター 8
演出 8
作画 7
音楽 6
総合得点 34点
総合評価 C

1期とは逆に中盤から急激に低空飛行して最終的に尻すぼみになってしまった。この事実から導きだせるのは「我々はカードゲームそのものではなくカードゲームをやっている女子中学生たちが感情を剥き出しにして泥沼に嵌っていく様子に興味がある」ということだ。だからその思念の権化であるあきらっきーがいる時といない時とでは大分面白さが違ってくる。カードゲームはあくまで手段にすぎなかったのだが、いつの間にかカードゲームそのものが目的と化しており、カードゲームの販促としてはそれで正しいのだろうがアニメ作品としてはその道を辿ってしまうのは失敗だった。

ウィクロスに関する種明かしが今までの展開の衝撃を超えるものではなかったの尻窄みになった要因のひとつ。1期はひたすらエモーショナルに考えるな感じろの道を突き進んでいたのに2期では理詰めでウィクロスの本質を暴こうとしたのが失敗だった。あと「バトルよりみんなが好き」とタマに宣言させたのはカードゲーム販促アニメとしてどうなんだ。「バトルしたからこそみんなを好きになれた」という結論を導き出さないと現実のカードゲームは行き場を失う。8話においてタマが肉体性を獲得してイオナをタコ殴りにした(+その後にタマが正気を取り戻して錯乱するところ)あたりは少女の願いが具現化されるとこうなるのよ的な岡田麿里の悪意が表出してて、歪んだ性格の人間に脚本書かせるとこんなにも純粋で気持ち悪い話が出来上がるのだなと感心した。あとやっぱり岡田麿里が最も入れ込んでいるのは間違いなくあきらっきーで、8話ラストからの展開を見てると自身とシンクロさせてる節さえ窺える。

1期中盤〜2期中盤まではカードゲームなんて関係ねえと吹っ切れて岡田麿里の露悪趣味全開の内容だったのが逆にカードゲームへ興味をもつきっかけになっていた。しかしカードゲームそのものや世界観を提示する場面においてはどうもその岡田麿里の世界観と乖離してしまっている。カードゲームの世界と岡田麿里の世界が上手く混ざっていない。世界観を掘り下げるために用意されたちよりやふたせ文緒は岡田麿里の世界にはどうにも馴染まないのだ。逆にあきらっきーはカードゲームの世界に馴染まない。二つの世界を行き来出来たのは主人公の小湊るう子と浦添イオナだけだった。

カードバトルに勝っても負けても絶望しかないという闇一色の世界の中で、最後にウィクロスの支配者たる繭が選択した色が闇でも光でもなく無色だった、というオチは見事に決まっていた。「(人格の)入れ替わり」という設定で様々に書き換えられた少女たちの色も小湊るう子の願いによって無色、すなわち汚される前の状態、人間として元通りに生活できるようになった。色というものは日本だと古来より恋愛や性欲を示唆する言葉として用いられており(「色気」「色艶」とか)、この俗っぽさは岡田麿里が示したテーマだろう。そして小湊るう子のたったひとつの願いが誰も犠牲にならない世界だったというのは、このアニメが意識しているまどかマギカに対する唯一の反抗心なのかもしれない。制作陣のフィクションに対する希望が窺える。

女子中学生同士がカードバトルに熱中するという世界は咲における女学生麻雀全盛の世界に近いのかもしれない(もっとも、ルリグがGirlのアナグラムであることからこのカードゲームが女性を中心に動いているのは必然だったが)。あるいは現実でもおれが知らないところで女性のカードゲームブームが巻き起こっているのかもしれない。そういえば小学生の頃、二つ隣の家に住んでいた同級生のアリサ(仮名)という女の子がおれと遊戯王カードでよく遊んでくれていた。その彼女とは2年前同窓会で再会したのだが昔の面影を全く感じさせない分厚い化粧が素顔を覆っており、こうして少女は男の子たちの知らないうちに大人になっていくのだな、としみじみ思った。誰もが時とともに歳を重ねていく。フィクションの中の世界に生きる小湊るう子は20年後30年後、おれが老人になってもなお中学2年生であり続ける。しかし最終回は明確に未来を指し示しており、そうなると次に小湊るう子と再会した時、彼女は大人の女性になっていてウィクロスなんてとうの昔にやめているのかもしれない。そんなことをふと思ったのだった。



魔弾の王と戦姫

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ストーリー 7
キャラクター 6
演出 7
作画 4
音楽 7
総合得点 31点
総合評価 C

最近はファンタジーというジャンルがどうも斜陽になっている気がしていて、スレイヤーズに洗礼を受けた人間としては中々悲しい現状なのだが、実際新たに生み出されているファンタジー作品の多くはスレイヤーズの足元にも及ばない2流3流のものか、あるいはファンタジーという枠組みを利用したラブコメ・ハーレムものだったりする。必ずしもそれらが悪いというわけではないが、創作におけるファンタジーよりもファンタジーな現代社会に生きるおれたちにとっての「ファンタジー」とは一体何なのだろう、と考えてしまう。ここではないどこかを探し求めた人々が行き着いた先は魔法やドラゴンが当たり前のように存在する空想の世界ではなく、現実の延長上の世界でありながら俗世と切り離されたかのような「日常」だった。大きな事件も胃が痛くなる諍いもない、それでいて毎日が楽しく輝いているような世界が日常系の極地であるなら、現在のファンタジーとは一体誰が何のために生み出している世界なのだろう。やはり、かつてファンタジーの世界に夢を見た人間が諦めきれずにいるのだろうか。

そんなかつてのファンタジー、われわれの最大公約数的な古き良きファンタジーを体現したようなこの『魔弾の王と戦姫』はとにかく手堅い。ファンタジーというジャンルの枠組みに属していながら、軍の指揮系統や作戦や政治経済などが非常に現実的だ。ここらへんは『まおゆう』の感覚に近いところがある。今、真面目なファンタジーをやろうとするとこんな風に現実の要素を上手く取り入れないと成立しないだろうか。ともかく、こうして極めて理論的に構築された世界観が手堅いながらもやや地味な印象を与えてしまう。加えて、主人公のティグルの武器は刀でも銃でも杖でもなく「弓」というのがそこに拍車をかけている。

主人公の武器が近接系ではないというのは新鮮だった。遠距離攻撃の武器は近接系の武器と比べて見せ場を作りづらい。しかも弓。銃は引き鉄を引くだけで攻撃が可能だが、弓は攻撃するまでの動作が多すぎる。そこで戦姫という、主人公に代わる近接戦闘者を用意した。この作品の世界観がどうも主人公のために作られたような印象を受けるのはこのためだろう。正直なところ、最後まで戦姫が戦姫である必要性があまり感じられなかった。

ちょっと語るのに困るくらいとにかく地味な作品で、売れるか売れないかと言われればおそらく売れないのだろうが、わりと丁寧に作られてる印象はあって、好きか嫌いかと言われれば好きな部類に入る。国取り合戦としての側面をもう少し強くしてくれれば、あるいはいっそラブコメっぽさを押し出せばそれなりに話題になったのかもしれないが、このアニメはこのままの姿が一番収まりがいい気がする。「ありのままの姿見せるのよ/ありのままの自分になるの」とMay.Jや松たか子は歌っているが、実際の歌詞(英語詞)の意味はそれとだいぶ違っている(それなのに日本語訳が「ありのままの姿見せるのよ」なのが皮肉っぽくて面白い)。しかし日本人の口に合うようにわざわざ文意を変えたり削ったりして訳した結果アホみたいに人気が出たわけで、結局のところ大衆に迎合するか自分の意志(原点)を貫くか、という問題なのだ。『魔弾の王と戦姫』は決して多くの視聴者に迎合しなかった。不格好でも不器用でも、そんな姿がこの現代においてもっと尊重されるべきなのではないか。



失われた未来を求めて

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ストーリー 9
キャラクター 9
演出 9
作画 6
音楽 8
総合得点 41点
総合評価 A

今期のダークホースその1。ギャルゲ・エロゲ原作アニメにありがちな「見せたいシーンありきでストーリーが組み立てられる」というものではなく、「幼なじみを救うために主人公が生み出した女の子が何度も同じ時を繰り返す」という骨組みがあり、そこにキャラクタや本筋と直接的に関係のない話を足しており、それゆえ極めて物語としての作品の強度が高い。初回で半分近くのネタばらしをしたことも効果的だった。おかげで日常の何気ない一コマにも注意が向くようになる。ヒロインの佐々木佳織が事故に遭うことが分かっているので常に気が抜けない。そうして再び佳織が事故に遭うことでもう半分のネタばらしがされ、そこでようやくこのアニメの全貌が明らかになる。手際の良さといい構成の絶妙さといい、ゲーム原作とは思えないほど1クールのアニメをしっかり意識して作られていた。

そして本当のヒロインは佐々木佳織ではなく主人公の秋山奏が生み出した古川ゆいだったということがわかる。マルチエンドのゲームとは違い、アニメではしっかりと1人のヒロインを選んでいるのも前述の意識の表れだろう。「女の子を救うために同じ時を繰り返す」という骨組みはシュタインズ・ゲートを想起させるが、こちらは学校という空間が中心に据えられており、大学生である岡部たちよりは行動範囲は狭まっている。その代わり、短い中で誰もが通り過ぎてきた学校生活という身近な題材がループものというフィクション性の強い作品に別の角度から現実味を与える。そのうえ最終回では「佳織を救えた世界」と「佳織を救えなかった世界」が同時進行で描かれ、その世界がひとつに収束していく。しっかりと帳尻を合わせてきたことも好感触だった。

何気ない出来事や会話などが後に繋がる伏線として機能しているので全話見終えたあとにもう一度通して見ても発見がある。SFがベースでありながらやっていることは物凄く真面目なラブロマンス。日常描写が丁寧だったので各キャラクタの心情も鮮明に浮かび上がってくる。古川ゆいという少女を作り出すに至った奏の心情も痛切に伝わってくる。全体的に悲愴感が漂う、やや息苦しいアニメであったことは確かだが、それゆえに最終回で大きなカタルシスを得られる。ゆいは結果的に佳織を救ったことで世界から消えてしまったが、大人になった奏たちの世界に時間を収束させたことで「ゆいが再び生み出される」という明確な希望が提示された。最終回としてはほぼ完璧に近い。

失われた未来はしっかりと取り戻せたし、ヒロインのうち誰を選ぶかという問題も解決され、物語としてはこれ以上ないほど素晴らしい終わりを迎えた。エロゲ原作アニメはその自由度の高さゆえに目も当てられない駄作が生まれてしまう可能性もあるのだが、まれにその自由度の高さを駆使したこういう傑作が生まれることもあるので油断できない。ちょうど3年前の秋に放送されていた『ましろ色シンフォニー』も名作だったし、エロゲ業界はまだ死んでおらず息を吹き返すチャンスがあるのだと期待してしまう。少なくともこの『失われた未来を求めて』は今期放送されている他のアニメと比べても何ら見劣りしないどころか一枚二枚も上を行く傑作だった。



グリザイアの果実

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ストーリー 7
キャラクター 9
演出 7
作画 8
音楽 8
総合得点 39点
総合評価 B

アダムとイブが禁断の果実を齧る行為が原罪だと知りながらおれたちはりんご飴やアップルパイを美味い美味いと言いながら頬張っている。結局のところ旧約聖書とかギリシャ神話とか、そういうものをひっくるめた過去の教訓めいたものはこの21世紀において全く効力が無い場合が多く、こと日本に限定しても因習・古例などが残っているのは地方の村や集落のみだというケースが多々ある。未来は過去の集積から生まれ得るものだが、過去に縛られることとは違う。今なお果実を齧った罪に縛られている人間などいないように、現在は過去に起こった・起こしたことについて後悔する時間ではなく、どうすべきかという新たな行動について考えるために与えられた時間なのだ。というようなことがこの前読んだ本に書いてあって、読後おれはすぐにアップルパイを買ってきて食べた。人間なんてのはそのくらい適当で流されやすい生き物でいい。りんごはおいしい。

そんな「果実」の意味は掘り下げると面倒臭そうなので置いておくとして、「グリザイア」はフランス語で「灰色」を意味する「グリザイユ」に由来するということで、直訳すると「灰色の果実」になるのだけど、原作ゲームのプロデューサー曰く「灰色」はヒロイン達の状況や心情を表しているらしい。中には灰色どころか真っ黒な過去を十字架として背負っているヒロインもいるのだが、それ以上に特徴的なのはエロゲー原作でありながら、ほとんど恋愛の要素を感じさせないという点だ。ヒロイン達の抱える悩みや罪などを主人公の風見雄二がスマートに解決していくヒューマンドラマに近い。主人公がほとんど感情を露わにしないぶん、ヒロインは個性的な面々が集っていて、最小限の人間だけでも話が転がっていくように上手く考えられている。

長編というよりは各ヒロインを個別に掘り下げていく短編集的な色合いが強いため、物語としての食い足りなさはあったが、各編に登場するヒロインが皆単体でも充分な輝きを放つ濃いキャラクタばかりだったので内容そのものには満足できた。とりわけ最後の周防天音のエピソードはとにかく重いが引き込まれるものがある。『はだしのゲン』などで描かれるような戦時中の雰囲気にも通じる剥き出しのサバイバル感に圧倒されるほかなかった。この手のアニメでここまで人間の本性を浮き彫りにしてみせるというのはあまり例がないのでは。やはりエロゲ原作アニメは自由度が異常に高いのだということを再確認させられた。

来年の3月末あたりに『グリザイアの迷宮』と『グリザイアの楽園』がアニメ化されるということなので実際のところこのアニメはまだ終わっていないのだが、事実上『グリザイアの果実』という物語は一応完結したので何とか暫定的な評価を下せそう。迷宮と楽園を見終わってからまた改めて全体の評価をし直す予定だが、暫定的な評価は上記の通りとなる。しかし今期はエロゲ原作アニメが豊作だった。



オオカミ少女と黒王子

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ストーリー 3
キャラクター 6
演出 9
作画 7
音楽 7
総合得点 32点
総合評価 C

少女漫画が少年向けの漫画と決定的に違う点は何だろう。今や少女漫画と少年漫画の境界線はほとんど無くなったと言っていい状況だが、少女は少女漫画と少年漫画の境界線を自由に行き来できるのに対して、少年は未だに少女漫画の領域へ足を踏み入れることに対して多少なりとも罪悪感のようなものがある。この差は何だと考えても明確な答えは出ないし(出版社のカラーというのもひとつの要因だろうが)、それを考えるくらいなら『ベルサイユのばら』を読み通したほうが有意義な時間を過ごせるだろう。ちなみにおれの少女漫画初体験は御多分に漏れず『ベルサイユのばら』に捧げられたのだが、他の少女漫画を読んだり少女漫画原作アニメを見ていても脳裏には常にベルばらの存在がちらついている。やはり原体験というものの影響は計り知れないのだと思い知る日々である。

「オオカミ少女」と言われるとおれのような歪んだ人間は(少女ではないものの)女神レトを真っ先に思い出す。まあ元々日本語の「オオカミ」の由来は「大神」なのだしある種の神聖さを帯びた存在と認識されていても不自然ではないのだが、同時に「汝は人狼なりや?」というオオカミが人間(村人)に化ける騙し合いのゲームもある。「オオカミ少年」なんてのはウソつきの呼称だ。それらの場合におけるオオカミは悪だ。こんなふうにオオカミについての我々の認識はずっと昔から何故か歪んでおり、それは今に至っても変わっていない。神聖な動物なのか、悪い動物なのか。正しい答えは存在せず、物語の数だけ様々な解釈が乱立している。

さて、この『オオカミ少女と黒王子』という作品、はっきり言ってしまえば普通の少女漫画のような面白さは全くない。ここにあるのは作者の妄想が具現化された純度100%の夢物語だ。そもそも少女漫画というものは少年漫画よりもずっと「夢物語」の指向が強かった。いつもツンツンして毒を吐き彼女のことを犬呼ばわりしながら、肝心な時には優しくなったり全力で守ったりしてくれる、そんな男は果たしてこの世に存在するのだろうか。男性漫画家が描いたラブコメを読んで「こんな女いねーよ!」と憤る女性諸君と同様、我々男性もこういうキャラクタを見て「こんな男いねーよ!」と憤っているのだ。それは今期放送されていたドラマ『きょうは会社休みます。』に対しても同じ。しかし異性に対する理想を完璧に叶えられるのは創作の中だけだ。だから好きにやればいい。リアリティなんて無視すればいい。それが許されるのもまた創作の中だけだ。

つまり何が言いたいかというと、この『オオカミ少女と黒王子』は真面目に見ても全く面白くないのだが酒を飲みながら見ると笑えてくる、という身も蓋もない結論だ。どう考えてもこれをシリアスに受け止める必要はない。酒の肴として受容するのが一番正しい。そもそも創作とはそういうものだ。音楽も、絵画も、彫刻も、それらを鑑賞する我々受け手にその価値が委ねられている。アニメもまたアニメでしかない。そこに社会的・政治的・哲学的価値を見出して議論するのは視聴者の勝手だが、それを一般的なコンテクストとして定義付けるのは間違いだ、ということだ。だからおれはまどかマギカを震災や社会構造や宗教に結び付けて語るやつ(特に哲学者)がこの上なく嫌いなのだ。アニメは所詮アニメだ。『オオカミ少女と黒王子』は世相を斬る作品でもジェンダー論に一石を投じる作品でもない。単なるラブ・コメディだ。しょうもないな、と毎回笑い飛ばせばいい。それだけでいい。



天体のメソッド

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ストーリー 10
キャラクター 9
演出 9
作画 8
音楽 10
総合得点 46点
総合評価 S

北海道という場所に人々が抱いているイメージは「寒い」に尽きるのではないだろうか。あるいは「魚介類が美味い」「雪がやばい」「常に試されている」などだろうか。思春期を北海道で過ごした人間から言わせてもらうとそれらは全て正しい。しかしそれ以上に北海道という場所には、暮らしている人間でさえもよく分かっていない魔力のようなものがある、とおれは思っている。夏はジメジメした暑さに襲われ、冬は前が見えなくなるほどの豪雪に襲われ、それでもなお北海道から出て行こうとしない人間が山ほどいるという事実。決して暮らしやすい土地ではないのにも関わらず、である。あと北海道の住民の人間性を「大らか」と指摘する人もいるがこんなもん人によりけりで、「隣の芝生は青い」としか言いようがない。それは大阪とか沖縄とかに対してそこに住まない人々が抱くイメージと同じようなものだろう。おれは北海道で死ぬほどいいやつと出会ったが同時に死ぬほどどうしようもないやつとも出会った。それは東京だろうが何処だろうが変わらないのではないか。

『天体のメソッド』はそんな試される大地こと北海道を舞台にした物語で、久々の久弥直樹原作オリジナルアニメだ。久弥直樹といえば『sola』なんだが、これは当時の所謂「泣きゲー」の影響をもろに感じさせるがゆえにどうも個性が見出せないアニメで、正直今となっては物語の本筋以外ほとんど記憶に残っていない。そしてあれから7年。7年という月日はおれたちを否応無しに変えていく。当時高校1年生だったおれが社会人になったように。小学1年生は中学1年生になるし、中学1年生は大学1年生(社会人1年目)になる。それだけ7年という月日は重い。その重さに潰されないように何とか生きてきたおれたちはこのアニメをいったいどのように見ればいいのだろう。明らかに『sola』の系譜でありながら、明らかに『sola』とは違う透明感がある。爽快感とは違うクリアな感覚が作品全体に漂っているのだ。

その透明感が純真無垢なノエルという少女に起因するものであるのは言うまでもないだろう。北海道という舞台装置も上手く生きていた。円盤というものがいったい何なのか、理論的な説明を一切行わず、少年少女の感覚から物事を捉えて噛み砕いていく。今風の生々しさは薄いがゆえにエバーグリーンの雰囲気を纏っている(それは最終回のノエルの作画からも明らかだろう)。最終回において物語を「終わらせる」のではなく「始まらせる」のも素晴らしかった。ノエルを見つけ出した5人はまたそこから進んでいく。明確に希望に溢れた未来を指し示している物語の魅力にはやはり抗えない。ベタだろうが王道だろうが良いものは良いのである。

今年は『アナと雪の女王』が異例の大ヒットを記録して2014年の顔になったので、雪→北海道 という繋がりでこのアニメもブレイクするのではないかな、と思ったがこれはそういう大規模な社会現象を巻き起こすタイプの作品ではない。静かに優しく愛でるタイプの作品だ。5人という最小限の登場人物たちの人間関係をゆっくりと紐解いていきながら、徐々に円盤やノエルの正体などに迫っていき、最後には再び登場人物たちの心情にフォーカスする。非常によく練られた構成で、7年という月日は久弥直樹自身をも成長させたのだなと感慨に耽る。そして何よりこのアニメは音楽が最高だった。ED曲「星屑のインターリュード」の素晴らしさは以前触れたが、挿入歌の「ホシノカケラ」も泣きそうになるくらいの名曲である。クリスマスイブに発売されたイメージアルバム『ソナタとインターリュード』も良いアルバムだった(メインソングライターの佐藤純一の曲とそれ以外の面子の曲とで完成度が全然違うのは悲しかったがそれはまた別の話)。とても繊細なシナリオが骨組みになったアニメーションにとても繊細な音楽が組み合わさることで一級の作品が生まれた。本当に理想的な化学反応だ。P.A.WORKSも最高の仕事をしたし、目立った不満はほとんど無かった。3ヶ月前の予想通り今期トップクラスの作品。



繰繰れ! コックリさん

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ストーリー 6
キャラクター 8
演出 8
作画 8
音楽 4
総合得点 34点
総合評価 C

コックリさんの起源は西洋の占いとされているが、ここ日本では占いというより降霊術、すなわちホラーとしての意味合いが強い。50音表が記入された紙の上に硬貨を置き、その上に人差し指を乗せてコックリさんを呼び出す。成功すると硬貨が勝手に動き出してメッセージを伝えてくる。降霊に失敗した子供が狐の霊に取り憑かれたという事例もあるようだ。この事からコックリさんは禁忌の遊びとして認識されている場合もあって、ホラー映画に用いられることも多い。しかしこのアニメにおけるコックリさんにはホラー要素がまるでない。コックリさんの漢字表記「狐狗狸さん」から着想を得て狐(コックリさん)と狗(狗神)と狸(信楽)の霊を登場させてはいるが、こいつらよりも主人公の市松こひなの方がよっぽど怖いという有様だ。必然的にこの作品はギャグ一辺倒になる。

小学生の頃はトイレの花子さんとか怪談レストランとかがホラー作品の入門編として存在していて、慣れてきた頃にリングとか呪怨とか観て「ホラー!これがホラー!」と怯えながら納得していたのだが、社会に出ると貞子よりも怖いものが山ほど存在するのだと否が応でも思い知らされる。今のおれは夜中突然テレビから出てくる髪の長い女よりも納期の方が怖い。ふと鏡を見たら音もなく後ろに立っている青白い顔の子供よりもサービス残業の方が怖い。そんな大人に、そんな人間になってしまった。市松こひなが成長して大人になり、何とか無事に就職できたとして、そこでやはり生じるであろう人間関係の問題に心を痛めて精神を病み、それを憂いたコックリさんと狗神が会社を破壊する社会派ホラー・コメディがいつか生み出されないことを願うばかりだ。

この『繰繰れ!コックリさん』は間違いなく女性を意識して作られた漫画(アニメ)なのだけど、だからといって男性の侵入を拒んでいるわけでもない。むしろ8話などは案外男性のほうが楽しめたりするのではないだろうか。この作品には似つかわしくないほどのめくるめくラブロマンス。やっていることはBLなのに中身は美しいラブロマンスときた。そして今までとは違うテイストを帯びた繊細な作画に静と動のコントラストを意識した演出。ここだけ切り取ればものすごく深い作品なのでは、と文字通り深読みできるのだが、実際のところそんなことはなく、敷居の低いファンタジー(ホラー?)・ギャグアニメとして楽しめる。メインキャラはタイトルにもあるようにコックリさんなのだが、主人公はあくまで市松こひななので上手く調和がとれている。が、しかし、その調和を壊してまで作品の幅を広げてみせた8話がやはり最高だということを改めて宣言しておきたい。

後もうひとつ。カップラーメンという食品はおれのような怠惰な人間にとってまさに神からの祝福と言っても過言ではないだろう。お湯を入れて3分待つだけで完成だ。余計な調理はいらない。市松こひなもまた、カップラーメンの魔力に魅入られた人間であり、カップラーメンを食べている時だけは普段の人形のような姿から解き放たれ、人間としての居場所を獲得する。市松こひなにとって生きることとはつまりカップラーメンを食べることなのだ。だからカップラーメンを食べられなかった日の市松こひなは無口で無表情を貫き通す。市松こひなの降霊によって召喚されたコックリさんが、市松こひなの食生活に危機感を抱きカップラーメンを遠ざけることで、皮肉にもコックリさんが主夫としての人間らしさを獲得する一方で市松こひなは人間らしさから遠ざかっていく。今、市松こひなに最も必要な存在はコックリさんでもなく、勿論ひたすらに甘やかそうとする狗神でもなく、駄目人間でありながら分を弁えている信楽なのではないだろうか。



神撃のバハムート -GENESIS-

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ストーリー 10
キャラクター 8
演出 7
作画 10
音楽 8
総合得点 43点
総合評価 A

ハリー・ポッターは原作全部揃えて映画も全部観に行くほど好きだったが、ロードオブザリングは原作も読んでいなければ映画も見ていなかった。小中学生の頃はとにかくこれが2大ファンタジー作品だと持て囃され、見て/読んでいなければ流行に乗り遅れているような雰囲気だったが、おれは結局ロードオブザリングを「面倒臭そう」という理由だけで今に至るまで敬遠していた。が、成人を通り越して社会の奴隷となった今なら却って楽しめるのかもしれない。音楽も映画も絵画も何でも、それを鑑賞するときの自分の精神状態が大きく評価に影響を与える。クソみたいな感情を抱えて観た/聴いた作品はクソとしか思えないし、逆にテンションが最高潮の時に観た/聴いた作品は最高としか思えなかったりする。よくあることだ。今年だとタイバニの劇場版がその例だった。友人宅に泊まって徹夜で遊んだ後に映画館で観たのでとにかく全部が最高に見えた。しかしその半年後にUstreamで配信されたものを見ると「あれ、そこまででもないな」と気付いてしまった。こういうことには気付かないほうが幸せなのかもしれない。一時の感情に流されることは必ずしも悪いことではなくて、要はそれを後で後悔してしまうような人生を送ることが問題なのだろう。早く楽になりたい。

『神撃のバハムート』は一見してわかる通りとにかく壮大なファンタジーだ。明らかに海外のファンタジー作品を意識している。しかも奇跡的なレベルで作画がしっかりと追い付いている。最近だとMF文庫原作のファンタジーアニメなんかは作画がアニメで表現したいことに追い付いてなくて勿体無いな、と思うことが屡々なのだけど、このアニメはソーシャルゲームで得たマネーという圧倒的財力を武器に、視聴者が引くレベルのクオリティを誇る作画を見せつけてきた。視聴者フルボッコ体制である。「ソーシャルゲーム原作だからって馬鹿にするんじゃねえ」という制作陣の強い意志を感じる。確かに放送前はこれよっぽどのことがない限りコケるだろ、と思っていた。しかしよっぽどのことが起こってしまった。壮大なシナリオ、壮大な世界観、壮大な作画でアニメーションの力をこれでもかと見せつける、2014年を代表する作品だ。

時にSF・ホラー・ラブコメなどの一面を見せながら、ベースとなっている海外の大作を意識したファンタジーの骨格が非常にしっかりしているので主題から逸れた印象はない。常に一本道を進んでいた。大勢いるキャラクタもとにかく自由に動いていながらストーリーは破綻していない。綱渡りのような危うさもなく、毎回毎回劇場作品のような派手さを備えていた。演出はやや過剰な部分もあったが、それを補って余りある作画が本当に素晴らしくて、このアニメでここまで出来るなら来年放送される『シンデレラガールズ』はいったいどうなってしまうのだ、という期待が膨らんでいく。

主人公のファバロやヒロインのアーミラ、宿敵から一転してファバロの相棒となったカイザルなど、主要キャラクタも個性的で魅力に溢れていたが、その中でも沢城みゆき演じるリタは別格の輝きを放っていた。ゾンビっ子といえば2年前に放送された『さんかれあ』あたりが記憶に新しいが、少女の姿をした口の悪いゾンビというのは意外と珍しかったりする。傍観者的な立場を装いながら要所要所でしっかりカイザルを救っている彼女こそツンドラ・デレック通称ツンデレの王道だ。あとキャラクタの会話というのは基本的に重要なこと7割の中にどうでもいいこと3割混ぜるくらいが丁度いいのだが、このアニメに関してはほぼ9割がた重要な話ばかりしているので美麗な作画に気を取られていると大切な伏線を聞き逃してしまう。キャラクタの台詞がいちいち格好良いというか、妙に決まっているのは恐らく海外ドラマの影響だろうか。

今までソーシャルゲームは所謂ジャンクフードのようなものだと捉えられがちだったが、このアニメの出現によってそれが変わっていくのではないか、そう思わせてくれるには充分過ぎるほど良くできた作品だった。何より平均以上の儲けが出ているソーシャルゲームがアニメ化されると(スタッフの愛情や熱意・本気度なども影響するだろうが)作画が死ぬほど良くなるのだということが分かった。なので『シンデレラガールズ』はかなり期待できる。『艦隊これくしょん』は金の流れが微妙なのでまだ何とも言えないところ。しかし2014年はチャイカといいこのアニメといい、奇を衒うことなく真っ当なファンタジーを作ろうとする試みが見受けられたことが、かつてファンタジーの世界を愛していた人間としては嬉しかった。チャイカは終わってしまったがこのアニメはまだ続けられる余地はある。続編を待つ。



異能バトルは日常系の中で

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ストーリー 9
キャラクター 10
演出 8
作画 9
音楽 8
総合得点 44点
総合評価 S

今期のダークホースその2。ファンタジーものの中に日常系のエッセンスを加えるのではなく、日常系の物語の中にスパイスとして異能の力というエッセンスを加えた、近年珍しいタイプの作品。そのため所謂中二病患者が体液流して喜ぶようなバトルなどはほとんどない。あるのは異能という力の存在により少しだけ普通じゃなくなった日常だ。2011年に放送された『日常』という作品はその頃の「日常系」というカテゴリから少し距離を置いたところで繰り広げられた純度の高いギャグアニメだったが、このアニメにおける日常というのはラブ・コメディとしての要素が強い。日々笑いながら過ごすギャグのような日常もあれば、誰かに恋をしている日常もあるわけで、人の数だけ日常の定義が存在する世の中で敢えて「日常系」という言葉をタイトルに冠したその大胆さは前述の『日常』に通じるものがある。

兄貴サイドの話がよくわからないとか、Fとは一体何だったのかとか、そういうことを気にしている人間はこのアニメの本質を全く理解していない。そもそもタイトルに全て書いてあるじゃないか。「異能バトル」は「日常系」の構成要素のひとつにすぎないのだ。だから本物の異能バトルをテーマにしたファンタジーバトルアクションもののように設定を細かく練る必要はない。そんなものはおれたちの知っている日常に存在しないからだ。日常が日常である限りは異能がメインになることなどない。コミュニケーションの手段のひとつと言ってもいいだろう。そんな日常が崩れ去った時、初めて異能の力が本来の顔を出す。それが早見沙織の迫真の演技で話題になった第7話だ。寿来と鳩子の今までの関係が破綻して日常が崩壊したとき、異能は日常を取り戻すための力として作用する。

そもそも安藤寿来という人間は凄く微妙な立ち位置にいて、他人からの好意に対して鈍感というわけでもないのだが、誰か一人を選んで今までの関係を壊すようなことはしない。中二病全開の痛々しい言動・行動で周囲の人間を困らせつつも、あくまで居心地の良い文芸部を保とうとするバランサーのような存在だ。それでいて最後には自らの存在をメタ的に語ってみせる。およそ主人公としては型破りのタイプなのに何故か主人公として最高の働きをしてしまう。意識的に格好付けている部分がいつの間にか本来の格好良さとして定着してしまう、今でも掴みどころのない不思議な人間だった。

その安藤寿来を取り囲むヒロインたちはいわゆるテンプレートの範疇からはみ出ない性格・容姿なのだが、このアニメの物語に乗っかることでちょっとした歪みが生じる。その歪みがしっかり視聴者に魅力として伝わるように成形されているのが個人的に一番素晴らしい部分だと思っていて、正直異能なんてのは最終回で寿来が言ったように「格好良いだけのものでいい」のだ。問題はその異能を扱うのがどんな人間なのか、という点だ。異能の魅力とキャラクタの魅力は切り離せないが、キャラクタに魅力があれば彼/彼女が扱う異能にも必然的に魅力が生じる。そうした部分から派生した副産物としてバトル・アクションがある。フィクションを描くにはノンフィクションを熟知していなければならない、という当たり前のセオリーを理解していない作品が多いこのご時世に、ここまで真っ当に人間臭さを出した異質な日常系を標榜する作品に出会えるとは思わなかった。ラブコメ・ファンタジーベースの日常ものとしては近年屈指の出来。もちろん原作も面白いので皆さん買いましょう。



トリニティセブン

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ストーリー 3
キャラクター 9
演出 7
作画 7
音楽 7
総合得点 33点
総合評価 C

小学校低学年の頃は身体が脆弱すぎて不登校と言っても差し支えないレベルで学校を休んでいた。朝から病院に行って昼頃に家に帰ってきて『笑っていいとも』を見ながらお粥や鍋焼きうどんを食べて療養していた。学校を休んだ時にだけ見れる笑っていいともはおれの中では特殊な番組だった。風邪引いて頭がぼんやりしているので面白いなと感じることもなく、ただサングラスをかけたおっさんが喋ってる印象しかなかったが、見てるだけで何ともいえない安心感があって、それは『ミュージックステーション』や『タモリ倶楽部』では感じられなかったので、タモリがどうというより、あの番組に漂う変な緩さがそんな感覚を抱かせたのだと思う。そんなおれが生まれた頃から放送されていた笑っていいともも、今年遂に終わりを迎えてしまった。

世の中には何となく「自分が生きているうちはずっと続いていくのだろうな」とか思うものが、テレビ番組だけでなく自分の生まれた街の風景とか社会的システムとか、まあそういうものが色々とあって、『笑っていいとも』はその最たるものだったのだが、おれが死ぬよりも前に番組は終了した。『東京フレンドパーク』も『HEY!HEY!HEY!』も『さんまのからくりTV』も終わってしまった。きっとこれから『ガキの使い』も『さんま御殿』も『ごきげんよう』も終わってしまうのだろう。ただ、できればそれは、おれが死んだ後にしてほしいものだと思うのであった。

それに比べアニメやドラマのサイクルの早さといったらない。目まぐるしく新番組が始まっては終わっていく。どんな話題作も5年経てば前線から遠ざかっていく。人々が話題にしなくなり、一部の愛好家たちの秘蔵コレクションに収まっていく。去年の作品をちょっと話題にしただけで昔だ過去だと言われ、今ある作品でさえもその全てを把握できないほどに数だけが増え続ける。明らかな供給過多でありながら、それでビジネスモデルが成立してしまったが故に崩すことはできない。2011年3月11日に起こった震災は、そうしたビジネスモデルや価値観を根本的に破壊するかと思われたがそんなことはなかった。壊滅的な被害を受けた人たち以外は一週間後に元の日常へと戻っていった。もはや何が起こってもこの国は日常を保ち続けたいのだと露呈した今もなお、いつもと変わらない日常があり、おれたちは大量のドラマやアニメを摂取している。

『トリニティセブン』もまた、主人公のアラタにとって当たり前だった日常が崩壊していくところから始まる。今まで見ていた世界はアラタの願いから作られたものだったことを知り、日常は脆くも崩れ去る。こうして何やかんやあってアラタは王立ビブリア学園に入学して様々な事件に巻き込まれていく、ガワだけ見れば王道のファンタジーものだが、蓋を開けてみると実際は半分以上がラブコメで埋め尽くされている。時には重大な事件さえもラブコメの波動で解決していく。つまりこれは「本筋を無視していても楽しめる」という非常に今風なアニメなのだ。版権絵などを見てもわかる通り、魔法でバトルで云々といったメイン・ストーリーがあろうがなかろうが骨格はハーレムものなので「そんなの知るか、おれは女体が見たいんだ」という態度でも許される。今期の女体枠。

怠惰な人間をも受け入れる器の大きさは評価すべきだが、同時に何をやりたいのか分からないようなテーマの散漫さも目立ってしまった。しかし結局そんなことはどうでもいいのかもしれない。おれたちだって何がやりたいのかよく分からないまま今を生きている。春日アラタもまたその時々の自分の本能に従って生きる、非常に人間らしい人間だった。魔術を直撃させた相手を全裸にするというその能力からも彼の本質が窺える。彼にとって俗に言うラッキースケベとはラッキーではなく、自分の力で掴み取った血と涙と努力の結晶なのかもしれない。いいアニメでした。



Hi☆sCoool! セハガール

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ストーリー 8
キャラクター 8
演出 10
作画 8(?)
音楽 6
総合得点 40点
総合評価 A

おれはスーパーファミコンのちょい後、ゲームボーイとか64直撃世代なのだが、健全な日本男児としてもちろんファミコンは所持していた。が、以前書いたようにおれは中学生までゲームのプレイ時間が厳格に定められていたし、そもそもゲーム自体にそれほど興味のない人間だったので、SEGAにもそこまで思い入れがなかった。なかったが、見てすぐに元ネタが分かるほど親切なネタが散りばめられていた『Hi ☆sCoool! セハガール』は非常に良質なギャグアニメだったように思う。もっとも、最近発売されたゲームについてはさすがに分からなかったが。

この手のアニメがゲハネタやネットスラングに一切頼らず清く健全なシナリオを作り上げたのはそれだけで賞賛に値する。かといってまともでもなく、しっかりギャグアニメとして磨き上げられている。ちなみに今期一番笑ったのはこのアニメの第2話だった。極限まで研ぎ澄まされた即死の天丼ネタにはそれこそ死ぬほど笑わされた。

全話通じて制作陣のゲーム愛が感じられたというだけでだいぶ近年においては有り難みのある作品なのだが、2話が凄すぎたせいで他の話がやや霞んでしまっているのは否めない。しかし全部2話のクオリティに仕上げろというのも無理な話ではある。それほどに2話は素晴らしかった。今年のギャグアニメ大賞。



大図書館の羊飼い

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ストーリー 6
キャラクター 7
演出 7
作画 7
音楽 7
総合得点 34点
総合評価 C

歳を重ねると記憶力が低下していくのは人間の常だが、最近は小学校はおろか中学校の時の同級生の顔もはっきりと思い出せないようなレベルにまで達してしまった。よく遊んでいたやつの顔は勿論覚えているのだが、そんなに絡みのなかったやつは本当にぼんやりとしか頭に浮かんでこない。おれが非情なのか、記憶力がゴミなのか、もしかしたら誰かに記憶を奪われているのか。それはともかく、元から人の顔と名前を一致させるのが苦手なのでしなくていい苦労を山程している人生なのだが、逆におれ自身もそうした同級生たちに忘れ去られている存在なのではないか、と思うと何とも言えないつらさがある。自分が他人のことを忘れていっているように、他人もまた自分のことを忘れていっているのでは…と考えると、記憶の答え合わせに近い同窓会というものにはやはり積極的に参加すべきなのだろう。

大図書館の羊飼い』においても「記憶」というものは重要なテーマとして横たわっている。筧京太郎という男が特殊なのは他人に対してほとんど興味関心を示さないという点で、この物語はヒロインの白崎つぐみが中心となった図書部のハッピープロジェクトという活動と、それに伴った京太郎の変化が同時進行で描かれている。しかし京太郎自体はかなり序盤から心を開いて活動にも積極的に参加している。だからどうしても羊飼いの話よりも図書部の活動が本筋になってしまう。どうせならタイトル通り羊飼いについて突き詰めて欲しかった。羊飼いという能力者は「願いを叶えられる」のではなく「未来を予知し捻じ曲げることができる」という存在で、だからこそ前述の記憶というものが要になってくる。しかしハッピープロジェクトそのものは、日常系作品における文化祭とさほど変わらず、羊飼いと交わる点が少なかったのがこの物語の最大の弱点。

あと、これは3ヶ月ほど前に書いたような気がするが、図書館というのはおれにとって聖地みたいな場所で、冗談半分で取り扱ってほしくないのだけど、このアニメにおける「大図書館」は学校の中の図書室を指しているのではなく、羊飼いがアクセスできる大量の(人々の記憶に関する)蔵書が眠っている場所のことを指しているのだと分かった。本というのは記憶の集積だ。それが羊飼いの能力発動ための道具であり象徴だったのが印象的だった。

ウィーザーリヴァース・クオモは「Memories」という曲で「All the memories/Make me want to go back there, back there」と歌っている。人間誰しも一度は過去に戻りたいと思ったことがあるはずで、それは現在や未来よりも過去の方が素晴らしかったという記憶に基づいている願いだが、もしも未来を過去や今よりももっと良いものにできたとしたら、誰も過去に戻ろうとは思わないのかもしれない。羊飼いにとっての過去とは何だったのか考えるたびに、おれたち普通の人間の未来が黒く塗り潰されていることに思い至ってつらくなる。現在が過去の集積ならば同様に未来だって過去の集積たり得るはずなのに、おれはいつまで経っても労働の奴隷となっている未来しか見えない。過去と未来が切り離されてしまった人間はどのようにしたら救われるのだろう。教えてくれ筧京太郎。



棺姫のチャイカ AVENGING BATTLE

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ストーリー 9
キャラクター 8
演出 6
作画 8
音楽 7
総合得点 38点
総合評価 B

今や世の中には様々な喋り方をするキャラクタが溢れていて、もう方言とかいう括りには収まらないほどの癖を持つキャラクタが次々に現れては人々の記憶から消えているが、そんな中で本作の主人公チャイカ・トラバントは「助詞を使わない」という喋り方をするキャラクタで、おれたちが当たり前のように使っている日本語は助詞を省いても意味が伝えられるのだという発見をもたらしてくれた(英語・ドイツ語・中国語あたりのメジャーな言語でこれは不可能)。ロボットがよくこうした片言の喋り方をしているが生きた人間がこうした喋り方をするというのは珍しい。加えて誰でも簡単にチャイカ語を再現できるという点でのキャッチーさも持ち合わせている。

今時珍しいくらいクソ真面目に作られたファンタジーバトルものであり、そのシナリオが非常に強固だったため最初から最後まで一切軸がブレず安定していた。あまりに安定しすぎていてちょっと物足りなさも感じたが、今期は異常性を売りにしている作品が多かったのでこの作品の正統性が一層際立っていた。榊一郎はファンタジーものとしては異色のアウトブレイク・カンパニーと極めて王道のチャイカを同時に執筆することで精神安定を図っていたのかもしれない。

最近のファンタジーものはヒロインを増やしていく傾向が強いが、この作品は最初から最後までチャイカというキャラクタをどこまでも生かすように作られていて、余程キャラクタの魅力に圧倒的自信がないとこんな芸当ができないよなと感心しつつも、サブヒロイン的でありライバルでもある赤チャイカや自ら妹としての一線を越えるような発言をしつつ絶対にそうしないアカリなど、脇を固める女性キャラが良い意味で女性らしさをほとんど感じさせないのだから必然的にチャイカがヒロインになるよなと納得できる。そもそもこの作品はガズが述べていたように闘いこそ全てという世界観を構築しているのでギャグとか恋愛とかそうした要素がほぼ全部削ぎ落とされている。まさしく純正のファンタジーアニメだ(原作は読んでないのでわからん)。

ただ最終回があまりに駆け足だったことや、フレドリカというキャラクタがあまりに万能かつ強過ぎたせいで上手く使いこなせていなかったことなどの不満は残る。最近の角川作品はなんで全10話が主流なんだ。このアニメはどう考えてもあと1話は必要だっただろ。せめてあと1話さえあればフレドリカがまともに活躍できたはずなんだ。強過ぎるせいで闘いが起こるたびに速攻で殺される(不死なので闘いが終わる頃くらいにちゃっかり蘇る)みたいな不遇な扱いから脱却できたであろう貴重なチャンスも水泡に帰した。

しかし榊一郎と言えばポリフォニカみたいな時代が長らく続いていたが、昨年のアウトブレイクカンパニーのアニメ化によってそうした状況が変わり、今年のこの『棺姫のチャイカ』アニメ化によって各々が榊一郎に抱くイメージがだいぶバラバラになってきたように思う。棺姫のチャイカはここで完結してしまったがおれはポリフォニカアウトブレイク・カンパニーの続編をまだ待っているぞ。



PSYCHO-PASS サイコパス 2

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ストーリー 8
キャラクター 8
演出 9
作画 7
音楽 7
総合得点 39点
総合評価 B

初回視聴の段階で「これ2期やる意味あるの?」と言ったのは時期尚早だった。申し訳ない。2期は完全にエログロナンセンスを突き詰めており、1期とは別物の作品だといっていい。2期はとにかく何においても派手さを重要視している。ありとあらゆる出来事が派手なので演出も派手になる。その勢いに影響されてか作画も全体的に1期より良くなっている。1期の延長線上にあるアニメだと考えるといまいちなんだけど、1期から独立した別のアニメだと考えると意外にも面白く見えてくる。BLOOD-CやAnotherよりも鋭角で洗練されたエログロナンセンスであり近未来感も程々に有している。ストーリーは先に「見せたい部分(絵)」ありきで作っているせいかどことなく噛み合っていないのだが、このアニメにとってストーリー自体は大して意味が無いので当然のことだった。思い描いた絵を表現するためのストーリー、という程度に過ぎない。

しかし全11話というのはやはり尺不足だろう。東金朔夜が本性を現すのがあまりに唐突だったし後半の展開は駆け足にもほどがある。1期と独立した話かつ1期の補足(アフターストーリー)であろうとしたならそれは丁寧になされるべきだったのだ。結果的に1期とは切り離された形となったが、単体で見ると監督の塩谷直義や脚本を担当した熊谷純のやりたいことがもろに表出した趣味全開のアニメで、直接的に精神を揺さぶってくる気味の悪さに嫌でも惹かれてしまう。監督が霜月美佳を演じる佐倉綾音に「とにかく花澤香菜を嫌え」と演技プランを指示したことからもその悪趣味ぶりが窺える。

そう、2期においてもっとも重要なキャラクタは結果的にカムイでも東金朔夜でもない。霜月美佳だったのだ。このアニメを悪趣味の権化にするためには常に視聴者のヘイトを高めさせる人間が必要だった。我々がもっとも苛立ちを覚えるのは極めて強い敵ではなく無能な味方だ。常守朱が1期の頃からは考えられないほどに成長し極めて有能な主人公と化した2期において、代わりに用意された未成熟な人間が霜月美佳だったわけだが、あまりに多大なヘイトを集め過ぎたために最終的には精神面がシビュラに取り込まれてしまう。もっと直接的な惨たらしい仕打ちを受けると思っていたのでこの程度で済んだことに多少驚いているが、実質的に自由を奪われているので先のことを考えると充分な仕打ちだったのかもしれない。

虚淵玄が関わっているのといないのとではやはりだいぶ差が出てくるのだという事実を痛感させられたが、かといってこれはこれでひとつの作品として楽しめるレベルには達しているのでどうにも評価が難しい。ほとんど物語の体を成しておらず、ひたすら制作陣がやりたいことを突き詰めた実験作という感じで、むしろこういうものを作れる土壌が未だに存在していることを有り難がるべきなのではと思い直した。真のサイコパスはこのアニメを最後まで見続けた我々視聴者なのかもしれない。



俺、ツインテールになります。

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ストーリー 9
キャラクター 8
演出 7
作画 3
音楽 9
総合得点 36点
総合評価 B

世の中には自分にとってどうでもいいと思えることが本当に多い。そしてどうでもいいことに白黒付けたがる人間がここ数年で以上に増えてきた。号泣議員の進退だの佐村河内だの総理が高級天婦羅を食ってただの今年の漢字が「税」になっただの、どうでもいいことが新聞やワイドショーで大々的に取り上げられ、それが良いことなのか悪いことなのかをめぐって終わりのない議論が繰り広げられる。どうでもいいことを問題提起して、どうでもいい結論を出そうとする。おれにはその一連自体がどうでもいいし、個人の物差しでしか白黒付けられない問題なんて議論するだけ無駄だ。そんなどうでもいいことよりも明日の天気のほうが重要だ。天気といえば魔法少女と呼ばれた天気予報士が不倫して番組降板したとかいう話もどうでもいいんだけど、逆に魔法少女と呼ばれるような子供っぽい身なり・顔立ちの人が不倫していたという事実のほうが興奮するし凄く魅力的に思えませんか?そうですかおれだけですか。

観束総二ことテイルレッドはツインテールを見ただけで熱く興奮する異常性癖の持ち主なのだが、結果的にその性癖が世界を救うことになるし周りの人間は彼の性癖に寛容なので、異常性癖者の中では恵まれているほうだろう。世の中にはもっと上級の性癖の持ち主がいるし、彼/彼女らのほとんどはその性癖を他人から理解されない。この『俺、ツインテールになります。』というアニメに関していえば、神堂慧理那ことテイルイエローがそうした性癖の持ち主に当たる。が、不幸にも彼女の性癖はツインテールの波に飲まれ、最終的にやばいタイプの変態という共通認識が出来上がってしまう。しかしトゥアールが開き直って自身の性癖のやばさを認めていたこともあり変態としての存在感も薄れてしまった。とにかく不幸としか言いようのないキャラクタだった。

しかし本作の真の主人公は観束総二でもトゥアールでもなかった。津辺愛香ことテイルブルーである。貧乳でありツインテールであり非常に好戦的な主人公の幼馴染み。様々な属性を備えていながら調和を壊すことなくヒロインという体裁を保ち続けている。恐ろしいバランス感覚だ。主力として敵を薙ぎ倒していくし数少ない良識者としてのツッコミ役も担っている。明らかにテイルブルーに負担がかかり過ぎているのだが、時折見せる野獣のような一面が憐れみの視線を向けさせないファクタとして機能している。やはりテイルブルーはヒロインではなく主人公だ。

もうひとつ特筆すべきはこの作品における敵の存在だ。敵の存在理由はまさしく冒頭で述べたような「どうでもいいこと」そのものである。世界からツインテールが無くなろうがどうだっていい。どうだっていいのだが、世の中にはそれをどうでもよくないと思っている人間がいるのもまた事実。観束総二はその大多数の人間にとってどうでもいいことを見過ごせなかった。この世からツインテールが無くなってしまう、というのは善なのか悪なのか決められない。これもまた個人の物差しでしか白黒付けられない問題だからだ。しかし主人公が観束総二である以上、この世からツインテールが消えてしまうことは悪だったし、ツインテールを守ろうとしてアルティメギルの刺客たちを倒していくツインテイルズは正義だった。「どうでもいい」という大多数の感情を逆手に取った馬鹿馬鹿しいこと極まりないシナリオは本当に素晴らしいのだが、中盤作画が荒れに荒れたことが大きなマイナス要因。こういう馬鹿なアニメこそハイクオリティの作画で映像化すべきなのだ。



ガールフレンド(仮)

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ストーリー 3
キャラクター 6
演出 7
作画 8
音楽 7
総合得点 30点
総合評価 C

回転寿司というものを始めて体験したのは小学3年生の時だった。それまでは生の魚が食えなくて寿司というものに手が出せなかったのだが、その前の年に穴子にはまったことが切っ掛けで生魚が食えるようになり、小3の誕生日に祖母が街の中で一番大きな回転寿司の店に連れていってくれたのだった。そこで見た光景は当時の自分からしたら感動というより衝撃で、食い物がどんどん流れてくるという奇跡体験をただ呆然と受け入れるだけだった。目が慣れてくると、色とりどりの寿司が矢継ぎ早に流れてくるのはもちろん、時たまケーキやら唐揚げやら果物やらが流れてくることにテンションが上がった。しかしそれらの所謂サイドメニューは到底寿司の美味さには及ばなかった。そして食べ終わる頃には入店した時の驚きはとうに無くなっていた。あれだけ沢山の寿司があったのに最後に覚えていたのは穴子やホタテといった自分の好きなネタだけだったし、満腹になってもなお流れてくる寿司に対して不快感さえ抱いた。結局おれが基本的な寿司のネタを把握しきったのは高校生くらいの頃だったように思う。興味がないものはただコンベアに乗って右から左へ流れていくだけだった。

『ガールフレンド(仮)』というアニメでもこれと全く同じようなことが起こっている。色とりどりのキャラクタが華々しく画面を飾っているのはいいが、あまりに多すぎるせいでほとんどのキャラクタの顔と名前が一致しないどころか、顔さえ覚えてないキャラクタが多い。しかも人数が多すぎて充分な掘り下げができていないので、まさしく次から次へとキャラクタがコンベアに乗って流れていくような感覚に襲われるのだ。何とか声優の名前でキャラクタを把握してはみたものの、最終回を迎えて覚えていたのはクロエ・ルメールと椎名心美だけだった。心美は主人公という立ち位置なので別として、クロエだけは明らかに他のキャラの10倍以上個性が強くて、やはりCMで得られた人気がそのまま反映されているのだろう。寿司で例えるとマグロのような存在だった(深い意味はない)。あとミス・モノクロームはほとんど出番がなかったにも関わらず圧倒的な存在感を放っていた。なぜか最終回に見せ場があったけど。

この手のアニメの抱える「物語の色合いが薄くなるという弱点をどこで補うか」という問題は永遠のテーマだろうし、明確な解決法はまだまだ見つからないだろう。その点、2011年に放送されたアニメ『アイドルマスター』は上手く物語の要素を取り入れた傑作だった。断片的な物語を繋ぎ合わせるにはキャラクタの力が必要不可欠なのだが、この『ガールフレンド(仮)』はとにかく異常なまでにキャラクタが多いせいでそれが出来なかった。ゲームに登場する人物の中からある程度絞っていればもう少しましなものに仕上がったのだろうが、そうなるとゲームプレイヤーたちからの批判が押し寄せることは確実で、そこらへんの擦り合わせも難しいよな、と暗澹たる気持ちになる。来年放送される艦これシンデレラガールズとかがこうなってしまわないことを願うばかりだ。

このアニメの主人公は椎名心美だと述べたが、実際の主人公は間違いなくクロエ・ルメールだろう。彼女にだけは明確な物語が存在した。だからこそ全話にクロエ・ルメールを出せば筋の通った物語が成立したのだが、このアニメはそれをしなかった。とにかく大量にキャラクタを出す道を選んだのだ。それが必ずしも悪いことだとは言わない。結果的にプラスに作用することだってある。例えば『デュラララ』なんかは大量に出したキャラクタが後半から繋がっていく、点と点を線で結んでいく群像劇だった。『ガールフレンド(仮)』もやろうと思えばそういうことが出来たはずなのだが、何の変哲もない日常を様々なキャラクタの視点から映し出すという日常系作品の手法を取り入れたがゆえに身動きを封じられた。キャラクタをたくさん出して可愛さをアピールしようとした結果可愛いやつがたくさんいすぎて逆に誰もそんな可愛く見えなかった、という。ネコとか可愛いけど四畳半の部屋に1000匹くらいいたら可愛いを通り越して気持ち悪いじゃないですか。そういうことです。



結城友奈は勇者である

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ストーリー 3
キャラクター 7
演出 5
作画 8
音楽 7
総合得点 30点
総合評価 C

おれはドラゴンクエストを一度もプレイしたことがない。それはおれの世代では極めて珍しいことだと思うのだが、事実やったことがないしやる機会が無かったのだから仕方ない。おれはドラクエよりファイナルファンタジーのほうが好きだった。全ての戦いにしっかりとした意味があって、全てがひとつに繋がっているあの世界観が好きだった。あの世にひとつだけゲームソフトを持って行けると言われたら迷わずにFF10を選ぶ。対して「世界を救う」とか「正義の味方」とかそういうクサすぎる要素が前面に押し出された作品というのは本当に苦手で、それはキャラクタを描写している作者にとっての正義であっておれにとっての正義ではないんだよ帰れ、というパターンがほとんどだった。押し付けがましい正義は悪と同じだ。逆に作品の中での悪はおれにとっての正義という可能性だってある。前期放送されていた『さばげぶっ』の園川モモカの信念はおれにとっての正義だった。勇者は必ずしも大衆にとっての正義を貫く必要はない。勇者は己の信念を貫けばよいのだ。

そういう意味で、この『結城友奈は勇者である』というアニメ、正確には『結城友奈は(作者が思い描く)勇者である』と言ったほうが正しい。結城友奈の正義は確かに大衆にとって耳障りの良い正義かもしれない。しかし肝心の結城友奈の「信念」が見えてこない。言い換えれば、結城友奈という人間がよく分からないのだ。欲も見えないし喜怒哀楽の怒と楽も表出しない。つまり人間に見えないのだ。「人間」と「キャラクタ」は違う。キャラクタとは主に創作作品の中の登場人物を示す言葉だ。アニメでは特に「キャラクタ」という言葉を意識しがちだが、強靭なシナリオをベースに敷いてアニメーターが命を吹き込むことでようやく人間らしさを獲得する、その道のりが険しいからこそ「キャラクタ」にしか見えないまま終わってしまうアニメが数多く存在する。

しかしそれが変わる瞬間があった。それが最終回だ。死力を尽くして敵を倒した結果、それぞれの身体を蝕んでいた異常は回復したが、友奈だけは心臓が動いて呼吸をするだけの植物状態になってしまった。これが「人間らしさ」を奪われた状態だ。つまり人間らしくない正義感を抱えて全力で戦い、全てが終わったあとで、ようやくシナリオがこれまで結城友奈に抱いていた違和感に追い付いたのだ。そして結城友奈に救われた勇者部の4人が今度は結城友奈を救う…という展開だったら本当に最高だったんだけど、残念ながらそんなことはなかった。結局、東郷美森の呼び掛けによって結城友奈は救われたし、その東郷美森は結城友奈に対して「友奈自身の根性で助かったんだよ」と語りかける。それでいいのかよ、という帰着点だった。「友奈が美森の車椅子を押して歩く」というそれまでの構図が最後に「美森が友奈の車椅子を押して歩く」という構図に変わったのは素直に良かったが。

まあしかし、鬱を演出する際に身体・精神障害を使いたがるの、エロゲライター出身者の死ぬほど悪い癖なのでいい加減にしろという感じだった。エロゲライター全員難病を患うとかしないとこの状況は変わらないかもしれない。何にせよ結城友奈が勇者であったかどうかは最後まで見ても判断に困るし、いち個人がこれは正しいだの間違っているだのといった判定を下すこともできない。結局はタカヒロの掌の上で踊らされていたということだろうか。だが中盤で散々「身体の異常は永遠に治らない」と不安を煽っておきながら最終回であっさり治ったのはやっぱり納得がいかない。そんな済し崩しの御都合主義なんて要らないんだ。おれが、おれたちが、本当に見たかったのはエロゲのシナリオベースのアニメではなく、王道の友情・努力・勝利を踏まえた少年漫画ベースのアニメだったのかもしれないな、とふと最終回における勇者部の面々の満ち足りた顔を見て思うのだった。



蟲師 続章

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ストーリー 7
キャラクター 6
演出 10
作画 10
音楽 7
総合得点 40点
総合評価 A

子供の頃、夏休みになると決まって母方の祖母の家に遊びに行っていた。遠方で暮らす従兄弟たちも集まってくることもあり、皆して朝から晩まで遊び回っていた。祖母の家はわりと田舎と呼ばれる町に建っているので、遊ぶ場所は専ら山の中や近くの川、少し遠くまで歩くと博物館や駄菓子屋、体育館・市民プールなどがあった。毎年毎年飽きずに見慣れた場所で遊んで暗くなると家に戻る。それが当たり前だった日々も今や昔、祖母には定期的に会いにいっているものの、従兄弟たちもおれと同じようにそれぞれ大学を卒業して社会に出ていった。必然的に会う機会もなくなる。年賀状という目的が形骸化した紙切れで互いの近況を把握する程度である。どんなに願っても何も考えず遊び回っていた日々は戻ってこないし、戻ってきたところで町は昔と姿を変えてしまったのであの頃と同じようにはいかない。カブトムシやクワガタを捕まえて走り回っていた山は今や半分が削られてしまった。祖母の家の近くの公園にいたバッタやカマキリも、公園の取り壊しに伴っていつのまにか姿を消した。あのカブトムシは、クワガタは、バッタやカマキリは、いったいどこに消えてしまったのだろう。

さて、昨今何か悪いことや予期せぬことが起こった時に「それは妖怪のしわざだ!」という言い回しが流行っているらしいので、同様に「それは蟲のしわざだ!」という言い回しだって流行る可能性がある。「虫」と「蟲」では当然指し示す意味が違う。蟲という存在については作中で「下等で奇怪な異形の一群」と説明されているが、そもそも「蟲」という字は生物全般を指し示すものだったので、この解釈は間違ってはいない。蟲師の世界は江戸期〜明治期の間だとされているが、その時代において理解の範疇を超える奇怪な出来事は全て「人智を超えたものの仕業」と結論付けていたのだろう。科学が進歩した現代においても尚、宗教と信仰は無くならない。

蟲師という存在は祈祷師というより科学者に近い。蟲という存在を冷静に分析して適切な対処法を見極める。蟲師であり主人公のギンコは感情がほとんど表に出ない人物だったが、1話完結型というアニメのスタイルと毎回変わる登場人物のおかげでそうした部分は気にならない。アニメは特にテレビシリーズとは思えないくらい作画・音響が美しく、これだけでも視聴する意味がある。8年の時を経てもなおアニメーションとしての美学を徹底的に貫いた長濱博史の執念を感じられる怪作かつ、アニメーションとしてはこれ以上ないくらいの完成度を誇る名作。劇場版にも期待が持てる。



浦安鉄筋家族

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ストーリー 5
キャラクター 8
演出 8
作画 7
音楽 6
総合得点 34点
総合評価 C

全話合わせても1時間にも満たないコンパクトさ。アニメが量産される今だからこそ有り難みのある素晴らしきショートアニメ。



白銀の意思 アルジェヴォルン

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ストーリー 7
キャラクター 7
演出 8
作画 6
音楽 7
総合得点 35点
総合評価 B

半年という尺でさえまだ足りなく感じてしまったのは良いことなのか悪いことなのか定かではない。あと1クールぶんの尺があればわりと名作と呼ばれる立ち位置に到達した気もするので、つくづくアニメというのは運に恵まれるかどうかだなと痛感してしまう。ドラマや映画だとあまりそういうことがないのだが(ドラマは視聴率低迷による打ち切りとかあるけどそれについては悲し過ぎるのでここでは触れない)。

終始演出がふらついていて、その皺寄せが最終回にやってきてしまったことが勿体無い。ただ劇中でアップテンポのOP曲を流せば盛り上がるというわけではないのだが、だいたいのアニメはこの手法でそれなりに盛り上がっているように表面上は見せられるわけで、それでもあまり盛り上がりを感じられなかったのはこのアニメのロボットが白兵戦特化型だからということに尽きる。白兵戦特化型ロボットといえば今年のブレイクブレイドが記憶に新しいが、こちらのアルジェヴォルンはブレイクブレイドに比べて頭脳戦など戦闘面においての駆け引きがほとんどない。パワーとパワー、それに加えて搭乗者のメンタルのぶつかり合いだ。搭乗者の精神が剥き出しになるロボットアニメといえばエヴァンゲリヲンだが、あちらは闘う相手が人間ではない。相手は使徒であり自分自身だ。アルジェヴォルンも最後に向き合うのは自分自身と自分が操縦しているアルジェヴォルンという機体だが、アルジェヴォルンという機体自体にエヴァほどの魅力がないのはこのアニメの大きなウィークポイントだ。

ロボットの方面がいまいちな代わりといっては何だが、人間関係の描写はかなり優れていて、対人関係も勿論だが自分自身を掘り下げていく内面の描写が上手く、最初は粗野で自己中心的だった主人公のトキムネが様々な人物と出会い多くの場数を踏むことで成長していく様子は少年漫画の王道といっていい。しかしヒロインのジェイミーはあまりヒロインらしさを感じさせない。トキムネとジェイミーの関係性に恋愛という言葉はどうもそぐわない。相棒、つまりはパートナーといったほうがしっくりくる。まあ夫婦という関係もベストパートナーという意味合いを帯びることがあるが。

戦争のほうは正直描写が甘かったが人間関係は半年かけてしっかり構築できていた。これは本当に佐藤竜雄らしかった。佐藤竜雄がシリーズ構成だったからこそ半年で何とかそれなりに収めきったのは明白だが、他の佐藤竜雄作品と比べるとやはり物足りない。派手さはないが見れば見るほど味が出てくる非常に渋い作品なので好みは分かれるだろうが個人的にはわりと好きな部類の作品だった。



ソードアート・オンライン

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ストーリー 9
キャラクター 8
演出 8
作画 8
音楽 9
総合得点 42点
総合評価 A


ソードアート・オンライン Ⅱ - 火のない火鉢があるだけ



アカメが斬る!

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ストーリー 8
キャラクター 8
演出 6
作画 7
音楽 8
総合得点 37点
総合評価 B

実質的にアカメが斬った回数はそんな多くない、というか斬ったの3〜4回程度でタツミの半分くらいな気がするんだけど、それが最終回のための布石だと気付いた時には全てが片付いていた。とにかく展開が早い。結城友奈よりこっちのほうがタカヒロらしさが出ている。1話時点では勧善懲悪、あるいは必殺仕事人のような類の話だと思っていたら帝国側の人間もナイトレイドの人間と同様の視点から描かれ、両陣営のどちらにも大義があって一概に善と悪で区別できないようになっている。善と悪はどこまでも主観でしか厳密に定義できないという点を突いた構成だったんだが、最終回でナイトレイドの振り返りはあっても帝国軍の振り返りは無かったあたりで主役はやっぱりナイトレイドのほうだったのだと分かってしまうので少しでもいいから帝国軍の回想を入れておくべきだった。あとこの最終回でED曲を流すのは蛇足だろう。

最近では珍しいくらい綺麗さっぱりと物語を畳んだのは好感がもてた。あれをハッピーエンドと言う気は全くないが、ナイトレイド側がほぼ全滅したことと帝国で革命が成功したことを踏まえると、もうあれ以上やりようがないので正しいラストだったと言えるのでは。しかしエスデスとタツミが氷漬けになったあと弾けて消えてなくなるシーンは意味がわからなかった。今まで異次元の闘いを繰り広げつつ人が死ぬ場面では極めて現実味を保ちつつ物語としての山場を意識していたのに(チェルシーやマインなどが顕著)、最後の最後で死体すら消えてなくなるという現実味のない絵を見せられるとどうにも違和感が出てくる。

戦闘よりも人間関係に目が行くシナリオであるがためにとにかくサブだろうがメインだろうが関係なくばんばん人が死んでいくんだけど、あまりに立て続けに人が死んでいくので一人一人のドラマ性が薄れてしまっていた。人の死にドラマ性を持たせて物語を盛り上げようとするのは安易な手法だが即効性はあって、今尚多くの作品で取り入れられてはいるがその即効性ゆえに持続性はなく、それをカバーするために定期的にキャラクタを死なせていくという目論見があからさまに透けて見えたのがマイナス点。ちなみに今期放送されている『クロスアンジュ』はそこを開き直って「だって命なんてそんなもんだろ」とばかりに人命を軽視しているのが良かった。

第1話から最終回直前まで実質的にタツミが主人公だったのでタツミの呆気ない死がいまいち受け入れられなかったのだが、最終回でそこらへんを上手く拾って本当の意味での主人公はアカメだったのだ、と提示できてたので2クールのアニメとしては充分な仕上がりなのではないか。始まった頃は半年間も体力もつのかよと不安しきりだったが蓋をあけると半年でちょうどいいサイズに収まっていた。まあタツミやエスデスのためにあと1話あっても良かったなという感じで完璧というわけでもないが、中途半端に投げ出される終わり方をされるよりはずっといい。



ヤマノススメ セカンドシーズン

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ストーリー 7
キャラクター 9
演出 8
作画 10
音楽 7
総合得点 41点
総合評価 A

今年の8月に登山をした。このアニメに影響されて、とかそういうわけではなく。大学3年くらいから薄々感付いてはいたが、明らかに中高生の頃より体力が落ちていて、難易度的には中級者程度の山だったのに結構疲れが溜まった。登山は人生で3回しかしたことがないのだけど、この黙々とひたすら頂上を目指して歩くという行為自体は非常に好きで、出来ることなら月一で山に登りたいくらいなのだが、いかんせん登山のための道具が高い。富士山とか一回登ってみたいなとは思うが、金と時間が圧倒的に足りない。あとやっぱり写真撮りたいマンなので高性能のカメラも買っておきたい。考えただけで財布が軽くなっていくのを感じる。登山は金のかかる趣味だ。なのでおれは今日も金のかからないジョギングに勤しむとする。走るというのは必要最小限のこと以外考えなくて済むのでストレス解消できるし運動不足も解消できる。だからもし雪村あおいに山登りの道具を買うほどの金がなかったら、と考えてしまうとそれだけでつらいのだが、創作の中では誰もが夢を叶える機会が与えられるので、あおいは登山道具一式を揃えることが出来たし、倉上ひなたと思い出の山に登ることも出来た。

山に登ることそれ自体は手段だ。『ヤマノススメ』という作品の目的は山に登るまでの過程、山を登っている時、そして頂上に到達した時を通じて雪村あおいの成長を描くことであり、そのためにはあおいの苦手とする他人とのコミュニケーションを密に描写する必要があった。なので登場人物は最小限に絞られる。基本的にはあおい、ひなた、斉藤楓、青羽ここなの4人で構成され、あおいが人間として成長して他者に手を差し伸べられるようになったその時、5人目の仲間となる黒崎ほのかが現れる。それまで見知らぬ他人とコンタクトを取ろうとするのは常にひなただったが、初めてほのかと出会った時はひなたではなくあおいがコンタクトを取る。だからほのかの登場は一番最後だった。富士山での挫折を経験し、あおいたちによって再び山に登ろうという意思が芽生えたその時、それがひなたが目に見えて成長した瞬間だった。

1期の頃はわずか5分しかなかった尺が2期になって15分(本編は実質11分程度)になった。最初はたかが10分増えただけだと侮っていたが、この10分が効果的で、1期の頃のぶつ切り感が完全に無くなり物語としてのアティテュードが明確になった。加えて作画のレベルが尋常じゃなく上がっている。作画の素晴らしさという点では今年のスペース・ダンディに次ぐ。ただ綺麗に見せるのではなく、アニメーターが己の個性を出そうとしているのが見ていて楽しくて、とりわけ13話の作画は今年のベスト級。ロリを描かせたら今右に出る者がいない柳沼和良のコンテ演出が決まっていたし、何より森久司が『虹色ほたる』のクオリティをそのまんま持ち込んできたことに喫驚した。この13話だけ7回ほど見た。こういう理屈抜きに最高の作画を見せられるとやはり感動してしまう。『電脳コイル』から作画にハマったおれの人生は間違っていなかったのだ。

とにかく楓が非常にタイプとかそういう話もしたいんだけどまあ別にしなくてもいいな。このアニメには親しみやすさはあるものの、同時におれたちが汚してはいけないような聖域に入ってる感じもあって、結局は画面を隔てた外側から女子中学生たちがじゃれ合っている様子を見届けるという、およそ遥か昔から味わっているはずのあの感覚に揺り戻されるのだ。例えば楓の普段着がやや性的なのにエロスを感じさせないような(おれだけかもしれないが)、あの創作と現実の感覚が如実に分断された不気味で虚実皮膜を痛感させられる一瞬を味わうことはやはり耐え難いのである。1期が5分、2期が15分と来れば次は30分かもしれないし、意表を突いて45分かもしれない。だがその時もきっと、おれの感じるこの得体の知れない苦痛が和らぐことはないし、この苦痛から逃れるためにはもう山に登るしかないのかもしれない。このアニメはまさしく『ヤマノススメ』だったわけだ。




◆各項目ベスト3◆

ストーリー
1位 天体のメソッド
2位 神撃のバハムート
3位 失われた未来を求めて


キャラクタ
1位 異能バトルは日常系の中で
2位 甘城ブリリアントパーク
3位 ヤマノススメ セカンドシーズン


演出
1位 Hi☆sCoool! セハガール
2位 蟲師 続章
3位 天体のメソッド


作画
1位 蟲師 続章
2位 神撃のバハムート
3位 ヤマノススメ セカンドシーズン


音楽
1位 天体のメソッド
2位 俺、ツインテールになります。
3位 ソードアート・オンライン 2



◆ベストキャラクタ◆

女性
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1位 櫛川鳩子(異能バトルは日常系の中で)
2位 斉藤楓(ヤマノススメ セカンドシーズン)
3位 ラティファ・フルーランザ(甘城ブリリアントパーク)

こんな幼馴染みがほしかった。


男性
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1位 風見雄二(グリザイアの果実)
2位 安藤寿来(異能バトルは日常系の中で)
3位 ファバロ・レオーネ(神撃のバハムート)

必殺仕事人みたいな。


人間以外(特別枠)

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1位 モッフル(甘城ブリリアントパーク)

甘ブリの連中から選ぶという感じだった。



◆今期ベスト主題歌◆

OP
俺、ツインテールになります。 OP『ギミー!レボリューション / 内田真礼

内田真礼2ndシングル「ギミー!レボリューション」ミュージックビデオ - YouTube





ED
天体のメソッド ED『星屑のインターリュード / fhana』

fhana「星屑のインターリュード」 (TVアニメ『天体のメソッド』ED主題歌) MUSIC VIDEO - YouTube





ED
天体のメソッド 挿入歌『ホシノカケラ / fhana』

ホシノカケラ (Hoshi no Kakera) - fhána - Episode 7 ED - YouTube




「ホシノカケラ」が名曲過ぎたので今回は特別に挿入歌枠も設けさせてもらった。



◆今期ベストエピソード◆

Hi☆sCoool! セハガール 2bit「コンボでつなげ 熱い気持ち」
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監督 菅原そうた

アニメに絞ると今年一番笑えたのはこのエピソードだった。天丼最高。



◆今期作品ベスト3◆

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1位 天体のメソッド
2位 異能バトルは日常系の中で
3位 甘城ブリリアントパーク
3位 神撃のバハムート




やはり2014年は2011年以来、3年ぶりのアニメ豊作の年だった。今期の何が凄いって、全然ダメな作品が全く存在しないということだ。個人評価D以下のアニメが現れなかったのはブログを開始して以来初めての事だったので無駄に感動している。『天体のメソッド』『神撃のバハムート』『甘城ブリリアントパーク』のような王道のものから、『異能バトルは日常系の中で』『グリザイアの果実』『失われた未来を求めて』のような変化球まで種類が豊富で一週間楽しめた。『ヤマノススメ セカンドシーズン』『セハガール』のような癒やしもあったしラインナップだけ見ると2010年代最高なのでは。

とりあえず今年の更新はこれにて終了です。来年もよろしくお願いします。