四月は君の嘘

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ちょっと長くなったので折り畳んでます。


初めてピアノを弾いたのは4歳の時だった。それから紆余曲折あって6歳からエレクトーンを習い出したのだが、音楽というものは努力だけでは圧倒的な才能に永遠に勝つことができない世界だと気付くのにそう時間はかからなかった。父親の遺伝によりおれの手は普通の人よりも遥かに小さかったし(同じクラスの女子よりも小さかった)、絶対音感も持ってはおらず(10年かけてようやく8割程度の絶対音感は身につけた)、おまけにクラシックというジャンルの音楽がそもそも好きではなかった(今はハイレゾ音源を購入して楽しんでいます、人間は変われる)。必死に努力して何度も楽譜を見て何回も同じ箇所を繰り返し弾き続け、講師に何度も「そこは穏やかに!」「そこは大胆かつ繊細に!」など抽象的な表現で注意され、周りからは「ピアノ習ってるとか女かよ」と言われ(そのたびに「エレクトーンだよバカ」と返していた)、そうして続けていても圧倒的な才能の前にただひれ伏すしかなかった。コンクールで優勝できたことは一度もなかった。自分と同じ学年で自分より裕福な家庭に育ったやつが次々と優勝を掻っ攫っていくのを眺めているのは単純につらかった。準優勝は小3の頃に一回あったが、あれは他の演奏者がわりとミスってたので運で勝ち取ったという感じだった。こうしておれは「努力って何なんだよ、本当に意味あるのかよ」と疑心暗鬼に陥り、小学校転校を機にエレクトーン教室を辞めた。努力が嫌いな今のおれはこうして完成したのである。


もっとも、優劣付けられる環境で弾くことが嫌だっただけで、趣味感覚で弾くのは好きだったしそれは今でも変わらない(なんだかんだ、あれから18年近くエレクトーンを弾き続けている)。中学に上がってからは友人たちとバンドを組み、手が小さくても演奏でき、尚且つ最も直接的にエレクトーンの経験を活かせるベースに没頭した。こちらもかれこれ12年続いている。バンドは大舞台で演奏するとかそういう活動はしておらず、もう本当にただの趣味だったので、誰からも叱られることなく自由に弾けるというのが嬉しくてたまらなかった。好きな曲を選んで耳コピしてみんなで合わせるという、あの一連の流れは今思い出しても最高だったし、バンドブームが廃れた今でも夢を追いかけてバンド組んでる人が沢山いるという事実には深く共感できるところがある。自分たちの音楽を届けたいとかそういう大仰な理想の前に、まず「バンドやってる時間が一番楽しい」という揺るぎない前提があるのだ。


しかし楽しいだけでは食っていけない。特に音楽とスポーツの世界は本当に残酷だ。運も努力も全て才能一つでねじ伏せられる。結局のところは才能が全ての世界だ。持つ者と持たざる者に否応無く分けられる。本作『四月は君の嘘』の有馬公生と宮園かをりは幸運にも「持つ者」だった。登場する他の音楽家たちも皆しっかりとした才能を持っている。現実ならそれだけでいいのだが、これはフィクションだ。創作された物語だ。ならば主人公の成長を描かなければいけない。成長するにあたって最も有効なのは挫折を経験することだ。挫折をして、そのまま折れない力を持っているからこそ主人公は主人公だし、より高い場所に到達できる。有馬公生は母親に指導された機械的な演奏で他の追随を許さなかったが、母親の死を機に「ピアノの音が聴こえなくなる」という症状に陥る。これが挫折だった。しかし最初は有馬公生は主人公らしくないくらいにとにかく逃げようとする。この「逃げ回っている」有馬公生がベースになって、のちの成長した姿が描かれることになるわけだ。


はっきり言って、この有馬公生のベースとなる挫折を描いた1クール目までで終わっていたらアニメは駄作だった。このアニメは2クール目からが本番だ。2クール目からは突然今までと姿を変えて普遍的な名作としてのオーラを纏う。具体的に言うと第13話が切っ掛けだ。今まで見えていた母親の姿は有馬公生の目を通して見えていた虚像だったと明らかになるあの瞬間。母親の愛情と息子の愛慕が重なった瞬間が間違いなくこのアニメの転換点だった。原作で表現できていなかった部分、アニメでしか表現し得ない部分がほぼ完璧に、過不足なく、理想的な形で眼前に現れた瞬間にこのアニメがようやく「完成」したことを悟った。音楽にフォーカスした作品というのは兎にも角にも表現が死ぬほど難しい。『坂道のアポロン』は音楽を手段に人生というものを描き切ったことで傑作へと上り詰めた。しかし『四月は君の嘘』は音楽が手段でもあり目的でもあった。だから音楽という表現から逃げることができない。直視ならぬ直聴を余儀なくされる。


「音が聴こえない主人公」というのはありがちな設定だが、「(自分が)ピアノを弾いている音のみが聴こえない」というのは珍しい気がする(類似作があったら教えてください)。前述のように音楽が手段でもあり目的でもある、つまり音楽が中心になって形成された世界の中に有馬公生は産み落とされてしまったわけで、「ピアノの音が聴こえなくなる」というのはもう世界そのものが意味を成さなくなるに等しい。だから1期は常に話の節々に死臭が漂っていた(もちろん、亡くなった母親が公正の心情描写の核だったことも大いに影響を及ぼしている)。2期でも宮園かをりの体調が悪化して入院したあたりから1期のそれとは違う死臭が漂うようになるのだが、こちらは過去のものではなく現在起こっているものとして、こちら側にも痛切に伝わってくる。このリアルな感覚がしっかりと届いていたのは演出の力によるところが大きい。


有馬公生が母親と宮園かをりの姿を重ね合わせて苦悩する描写も非常に上手かった。登場人物たちの詩的な台詞を出来るだけ気障に感じさせないように苦心している、その様が手に取るように分かる演出が実にアニメーション的で目を奪われる。有馬公生はその感受性の高さゆえに常にあらゆる問題を自分の中に抱えてしまい負のスパイラルに陥る人間だったが、宮園かをりという存在がその抱えた闇を引きずり出すことで物語が転がっていく。問題は有馬公生の内面をどのように具現化するのかという点だったが、これを音楽で表現するという離れ業が随所で発揮されている。同様にして後半から明らかになる宮園かをりの内面も音楽により鮮やかに表現される。とりわけ宮園かをりがエア・ヴァイオリンを披露した第21話、そして宮園かをりと有馬公生の共演から宮園かをりの死までを幻想的に描いた最終回は神々しさの中に生への執着が見える、ドラマではまず表現できないであろう描写が詰まっており、絵の力だけでなく音の力も合わさってこそのアニメだと再確認させられた。


また、最後まで見れば分かるように、これは高校生ではなく音楽家の視点から紡がれた物語なので、高校生が主役の作品における青春とか恋愛といった瑞々しい要素は中心に置かれることがない。とりわけ恋愛要素は音楽家以外の登場人物、すなわち澤部椿に任され処理される。椿が不幸なのは背負わなくていいものまで背負ってしまう、物語の枝葉となる要素を抱え込んでしまうところだ。最終回でタイトル『四月は君の嘘』の本当の意味がようやくわかるという仕掛けになっているがゆえに、最後まで椿が不遇だったのは仕方ないと割り切るしかない。宮園かをりが「恋愛」という感情を「憧れ」と混同し明確に認識できていないのか、敢えて自らの恋愛感情を押し殺していたのか、そこらへんの事情がラストになって全て明らかになり、「君の嘘」が何だったのかも分かるのだが、ギリギリまで「宮園かをりは有馬公生ではなく有馬公生の奏でる音楽に恋している」ように描いていたため、多少穿って視聴していないとミスリードされてしまう。


ここらへんが賛否分かれる部分だとは思うが、最終回の清々しいまでのベタさを浴びてしまうと誰もが仕方ねえなあという気になってしまうだろうし、王道はやっぱり良いものだ(夕焼けと桜の花びらと踏み切りの組み合わせは本当に卑怯だとおれはこれからも声を大にして主張し続けるぞ)。宮園かをりの死に対して不幸というかネガティヴな印象を受けず、しっかりと生を全うしたのだという潔さ・清々しさを感じさせるのはそうした真っ直ぐなシナリオの賜物だろう。冬から春に移り変わるこの季節に見ると特に清々しく感じられる。実は原作の最終回よりも先にアニメの最終回を視聴したのだが、これはもしかしたら今までのセオリー同様、先に漫画を読んでいたほうが良かったのかもしれない。音が主役のこの作品はやはり音ありき、音が一緒でないと味気なく感じられる。それでも音楽に頼るのではなく、音楽を通して演奏家たちの内面を映し出そうと苦心したこの作品には心動かされるし、おれがエレクトーンを弾き続けてきた時間は無駄ではなかったんだなーという勝手な確信なんかも得られたりして、とにかく出会えて良かったという月並みな感想に着地してしまう。まあでもこれだけエモーショナルでストレートな作品ともなると、どれだけ言葉を尽くしてもその良さは半分くらいしか伝わらないし、殊更変に凝ったことを言う必要もないだろう。良いものはいつどんなときだって良いものだ。