SHIROBAKO

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人は圧倒的な完成度を誇る作品(音楽でも絵画でも映画でも何でもいいのだが)に出会うと言葉を失ってしまう。そして往往にして圧倒的な傑作というのは我々凡人が到底想像できない世界を具現化したものか、今おれたちが生きている日常の何気ない要素や1コマを掬い取ってみせたものである場合が多い。おれが今まで「傑作だ!」と感じた作品は基本的に前者のものが多かった。ところがいざ学生を卒業して社会に出てみると、後者の作品の尊さ、素晴らしさに気付かされることが多くなった。それは社会の歯車になって初めてわかる、なんてことのない日常がどれだけ貴重な時間だったかという事実が少なからず影響しているのだろう。人生はつらい。そんなのはとうの昔から分かりきっていたことだ。大人になりたいと一瞬でも思っていた子供の頃の自分に今の自分を見せてやりたい。


でもおれは人間なので否応無しに身体が成長してしまう。心は全然追い付かないまま、身長は伸び、顔はおっさんに近付き、脳味噌は考えなくていいことを考えてしまう。いつのまにか中学を卒業、高校を卒業、大学を卒業し、いつの間にか子供から大人に、育てられる側から育てる側に、守られる側から守る側に、そして自分のあらゆる行動に責任を負う人間になってしまった。大人になりたくないと願ったところで叶うわけもなく、人は勝手に子供から大人に、大人から老人に、そして死へと向かっていく。しかし世の中には大人や老人になれないうちに死を迎えてしまう人も数多くいるわけで、望んだにせよ望まずにせよ、何事もなく(実際は轢き逃げにあったり背中に腫瘍ができて大規模な切除手術を行ったりしたが)ここまで来られた、というただそれだけのことが物凄く幸運なのかもしれない。おれは最低最悪な人間なので、はっきり言って人の生き死ににそこまで興味がない。それでも友人が結婚して子供が生まれた、という報告を受ければ嬉しくなるし、知っている有名人が亡くなったというニュースが流れれば悲しくなる。結局自分のことは自分が一番よく分かっていないのかもしれない。


前置きが長くなったが、『SHIROBAKO』という作品は冒頭で述べたような紛れもない傑作、それも数年に一度現れるかどうかの大傑作だ。ここ数年の水島努監督の打率の高さにはただただ驚かされる。もう何を作っても上手くいく超人モードに突入しているのかもしれない。放送当初は「これテーマがマニアック過ぎて大衆ウケしないのでは」と考えていたが完全なる杞憂だった。アニメ制作というテーマの根底にある「働くこと」の意味や人間関係といったほぼ全ての社会人が抱える問題を救い出し、どこまでも現実主義でありながらそれにポジティブに立ち向かう主人公たちの姿を描き切った名作になった。これが生きる活力になっていた社会人視聴者はおれ含め大勢いたのではないだろうか。純真で快活な宮森あおいの直向きさは歪んでしまったおれのような人間には眩し過ぎたが、それでもまあ何とか働いていこうというモチベーションを持続させるには充分だった。アイカツが生きる希望ならSHIROBAKOは働く希望だった。みゃーもりのような上司がほしいだけの人生だった。


本当に凄かったのは「宮森あおいの成長」「アニメーション制作の実態」という二本の骨格、すなわちメインシナリオが大々的に前面に押し出されているにもかかわらず、丸々半年使って「坂木しずかがメインの役を手にするまでの道程」という裏のシナリオがしっかりと作られ緩やかに進行していた部分だ。この伏線回収は本当に素晴らしいの一言に尽きる。坂木しずかの声質や演技力はおろか、『三女』というアニメを制作することそれ自体が、まるで坂木しずかが未来へ向かう確かな一歩を踏み出すために用意されたようにさえ感じられる。ここまで鮮やかに御膳立てされてしまうと坂木しずかのこれまでの報われない散々な日々を思い出して涙を禁じ得ない。こと声優という職業であるからこそ、先が見えない未来に対する不安が真っ先に現れ、強い志をもってして未来を切り拓いていく姿が強く逞しく美しく映る。


そう、このアニメは一貫して希望を描き続けていた。どんな逆境に立たされても決して希望は無くならなかった。いつだって手を伸ばせば、諦めずに頑張り続ければ、最後には希望を掴むことができた。それがどんなにフィクション的な御都合主義であろうとも構わなかった。フィクションだからこそこんな希望に満ち溢れた世界が作れる。フィクション、とりわけアニメは現実を直接的に変えはしない。しかしながら、「変えよう」と思わせてくれる力をおれたち視聴者に与えてくれる。明日も生きてみようという希望、労働という地獄に身を投じるための勇気、そういった沢山のものを与えてくれる。そんな素晴らしいアニメはこんな風に作られていたのか、という様々な発見をもたらしてくれる上に、働くことの意味をさり気なく教えてくれるこの『SHIROBAKO』というアニメが名作でないわけがない。最初から勝負は決まっていたのだ。いや、そもそも勝ち負けなんてのはハナから存在しなかったのかもしれない。


比較的登場人物が多いにもかかわらずしっかり描き分けられているし、アニメ制作者以外の視点を宮森の持つ人形で補填したのは見事という他ない。この人形がいたからこそ、このアニメはマニアックな道を進むことがなかった。この人形は宮森の心が反映されているという見方もあるが、おれは「宮森の心が反映されている時」と「視聴者側に近い何者かの視点が反映されている時」の2パターンがあったのでは、と考えている。あとドーナツ。このアニメで時たま重要な場面で現れるドーナツ。このドーナツは最終回のラストでも現れた。ドーナツといえば藍坊主のhozzyは「ハローグッバイ」という曲で、ドーナツの穴ぼこをテーマに「ぼくの抱える穴が、意味のある存在だったら、どんなにいいだろう。救われるよ」と吐露していた。ドーナツの穴は存在か空白か、という論争は永遠に決着が付かないだろうが、SHIROBAKOにおけるドーナツの穴はまだ見えぬ未来を示していた。最終回でもまだ主要5人のメンバーがドーナツを持っていたのは、いずれ訪れるであろう「5人でアニメを制作するであろう未来」を示しているのだ。特別感動的な描写も演出もないのにこのシーンが泣けて仕方ないのはこのドーナツがあるおかげだ。


様々な人物を登場させてアニメ制作の困難さを表現し、アニメが出来上がって納品し無事に放送された時の達成感。あらゆる小道具を駆使し、宮森を中心とした主要5人の内面を徹底的に掘り下げる手際の良さ。そして何よりどこをどう切り取ってみても王道中の王道、一切の変化球のない直球ストレートの物語。それなのに尋常じゃない力で強く惹きつけられる。まだ王道は死んでいなかった。アートを目指したようなアニメや無駄に熱いアニメ、あるいは斜に構えたシュールなアニメ、欲望を剥き出しにしたアニメや緩やかな雰囲気に身を委ねるアニメ。この世には様々なアニメが溢れている。そんなアニメの裏側をあくまでポップに描き、それでいて大衆を惹きつける分かりやすさがある。極めて自然に、説教臭くなく作り手側のメッセージを伝えてくれるので全く気負わずに見れたのも良かった。もちろん、ここで描かれた全てがアニメ制作の全てではない。もっと劣悪な環境もあるし、もっと良好な環境もある。ここで描かれているのはあくまでフィクションだ。だから「SHIROBAKOでやってたんだけどアニメって○○らしいぜ〜」と語り出してしまう人間が増えそうなのは心配なところだが、一切のスノッブ臭さを漂わせなかったこのアニメならそんな人間は生み出さないかもしれない。