バケモノの子

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10割ネタバレしています。



3回観た。1度目は土曜日、友人と2人で映画館に行ったのだが、映画が終わっても放心してしまい席を立てず、友人に「寝たの?」と言われる始末である。当然寝ているはずもなく、それどころか最初から最後まで全てのシーンを鮮明に頭の中で再生できるくらいには真剣に見ていた。そんなこともあって2度目は日曜日、1人で見に行った。しかし今度は友人が横に座っていた手前我慢していた凡そ全ての感情が湧き上がってしまい、結果として平常心で見ることは又も叶わなかった。3度目、平日の夜にようやく多少なりともまともな状態で観賞できた。なぜこんなことになってしまったのか、と言われればこの『バケモノの子』がどうしようもない名作で、客観的に観賞することを許さない、どこまでもおれ自身の中に入り込んでくる映画だったからだ。皮肉にも、闇に飲み込まれそうになった九太にとっての一郎彦のように、おれもおれ自身の闇を『白鯨』さながらに鏡として見せ付けられてしまった。


『バケモノの子』は主人公の蓮が母親を亡くし、親戚に引き取られることを拒絶して家を出て、新宿の路地で「バケモノ」である熊鉄に拾われるところから始まる。「九太」と名付けられ、熊鉄の弟子となりバケモノたちの暮らす世界で一緒に生活することになる。2人暮らしの生活でありながら、熊鉄の悪友でありイントロダクションで「語り部」としての立ち位置を明らかにした多々良、僧侶の姿をした物腰の柔らかい百秋坊が度々熊鉄のもとを訪れ、無謀にも人間の子を弟子にして育てようとしている熊鉄を諭したり、バケモノたちとは違う非力な九太を人間の世界に帰そうとするのだが、熊鉄の足の運びを真似ることで徐々に九太は熊鉄と対等に渡り合える力を身につけていく。普通なら強引になってしまいがちなこの展開の中に「師匠である熊鉄が猪王山にボロ負けする」というシナリオを挟み込むことで、九太が熊鉄をただのバケモノではなく「自分と似た境遇でありながら無鉄砲で強い男」と認識させ、自然に師弟関係を結ぶ筋運びへともっていく。


熊鉄は宗師から旅をして他の宗師と会ってくるように命じられ、九太、多々良、百秋坊とともに旅をすることになる。旅が終わった頃には九太は力を付け、熊鉄には弟子志願者が殺到するようになったが、ここでこの物語は急な転換点を迎える。九太がふとしたことで現実世界に戻ってしまうのだ。九太は図書館で『白鯨』を読もうとするが、当然まともな教育を受けていない九太は漢字が読めない。ここでようやく登場して九太に漢字を教えるのがヒロインの楓である。もっともヒロインとはいっても恋愛関係に発展することもなく、楓は九太にとっての(勉強の)先生、つまり人間界における熊鉄ような師匠的ポジションとして登場するのだが、ただ単に勉強を教える相手という関係から徐々に本音を言える相手に変わっていく。この本音というのが後の「穴」であり「闇」を示唆している。


そして「一度人間界に戻ってしまった九太はもうバケモノの世界に戻れないのでは…?」という不安をよそに、九太が普通にバケモノの世界に戻っている様子が描かれる。つまり九太は17歳になってついに人間の世界とバケモノの世界を自由に行き来できるようになったのだ。しかしここで注意すべきは「行こうと思えばいつでも人間の世界に行けた」という点だ。「行けるようになった」というのは九太の心情的な問題だった。9歳の時に親戚を振り切って1人で飛び出した九太にとって、人間の世界に戻るというのはこれまで意味のないことだった。戻っても仕方がなかった。だが、「色々なことを知りたい」という欲求に突き動かされ、九太は人間の世界に戻ることを決めたのだ。


人間の世界で様々なことを学び、別れた父とも再会でき、人間の世界に再び居場所を見つけた九太に対し、今まで九太の師匠であり同時に親代わりでもあった熊鉄は荒れ、自分の言い分を全く聞いてくれないことに反発した九太はバケモノの世界から出ていく。今度はバケモノの世界から人間の世界への逃避となった。熊鉄に対する苛立ちや今後自分はどのように生きていけばいいかという不安、それらが以前猪王山が言っていた「人間だけが抱える闇」となって九太の中に巣食う。自分は人間なのかバケモノなのか、それとも闇を抱えた怪物なのか、錯乱する九太に楓が渡したのが古い栞で作った赤いミサンガだった。九太に会う前までは小さいながらも両親に言えない「闇」を抱え込んでいた楓が九太に救われ、今度はその楓が闇を抱え込んだ九太にこの赤いミサンガを渡す。このミサンガが終盤に大きく関わる重要なアイテムだ。


一方バケモノの世界では、宗師の神格化に伴う引退によって、その後継ぎを決める熊鉄と猪王山との戦いが行われようとしていた。楓の説得もありバケモノの世界に戻ってきた九太は、友人であり猪王山の息子の二郎丸に自宅に招かれるが、帰りに二郎丸の兄であり、かつて二郎丸から自分を守ってくれた一郎彦に強襲される。かつて「人を助けるために力をつける」と言っていた一郎彦の変貌に驚かされるこのシークエンスが、物語の根幹へと結びついていく。


宗師を決める対決では、序盤こそ猪王山が優勢だったが、九太が会場に現れてからは熊鉄が徐々に優勢に立ち、まるで熊鉄と九太の2人で闘っているような闘い方で最後は猪王山を倒す。勝負は決し、新たな宗師は熊鉄になる、というところで前述した一郎彦の闇が暴走する。一郎彦が抱えていた闇、それはいつまで経っても父親である猪王山のような立派な身体に成長しないこと、思うように力がつかないこと、そしてそれでも父親を最強だと信じてやまない盲信的な感情だった。一郎彦は熊鉄を剣で刺し(念動力による遠隔攻撃)、闇に飲まれ逃走する。そして一郎彦は猪王山が人間の世界で拾ってきた、紛れもない人間の子供だったということが明かされる。一郎彦が自分と同じ人間だと知り、九太は熊鉄の敵討ちではなく、人間でありながらバケモノに育てられた自分が、同じ人間でバケモノに育てられた一郎彦を倒さなければならないと決心する。このとき初めて百秋坊が九太に対し「敵討ちなどという馬鹿なことをするな」と叱り付けるのだが、熊鉄譲りの融通の利かない強情さではなく、熊鉄のもとで育って身に付いた揺るぎない決断力の為せる信念だと気付いた百秋坊と多々良は九太を送り出す。熊鉄だけではなく、自分たちも九太の親のような存在だったのだと気付かされた百秋坊と多々良の言葉数の少ない会話が非常に印象的だった。多々良に泣かされた。


一度人間の世界に戻った九太は楓に会って別れを告げようとするが、この人間の世界で九太は闇に堕ちた一郎彦と再会してしまう。楓を守りながら闘う九太だったが、圧倒的な力を振るう一郎彦に追い詰められていく(一郎彦が九太の落とした『白鯨』を見て自らを鯨に変身させたのは象徴的だった)。ここで先程の「熊鉄と猪王山の闘いで熊鉄が勝利して次期宗師になった」というシークエンスが効いてくる。宗師になったということはすなわち神格化できる権利を得たということだ。剣で刺され瀕死の状態から僅かながら回復した熊鉄は、現在の宗師に「神になる」ことを宣言する。そして熊鉄は炎の剣に姿を変えて九太の前に現れ、その剣を振るい九太は一郎彦を倒す。


九太は一郎彦を殺さなかった。その代わりに自らが身に付けていた、あの赤いミサンガを一郎彦の手首に巻いてやった。赤いミサンガは闇を克服したものが闇を抱えている人間に渡すものだったのだ。熊鉄は神となって九太の中に取り込まれ、九太の抱える闇をも封じ込める存在になった。ここで人間の世界に居続けるのではなく、一度バケモノの世界に戻るのが重要な部分だ。バケモノの世界は平和を取り戻しただけでなく、人間の存在に寛容になっているのだ。その証拠に、今まで人間の世界で暮らしていた楓が宗師に招かれてバケモノの世界にやってくる。一郎彦と九太というバケモノに育てられた人間同士の争いに巻き込まれたにも関わらず、九太の闘いや熊鉄の覚悟を見たバケモノたちが人間への理解と敬意を示したのである。バケモノに囲まれる中で楓と九太が再会するシーンは細田監督作『サマーウォーズ』のラストシーンを髣髴とさせるもので、非常に清々しい。


バケモノたちや楓の前で大学に進学することを宣言した九太は人間の世界に戻っていき、それからは語り部の多々良が言っているように、もうバケモノの世界には行かなかったのだろう。ラストでは九太が父親と暮らしながら受験勉強をする姿が描かれている。熊鉄と九太が笑い合って幕を閉じるラストは言葉にせずとも通じ合う2人の師弟を超えた関係を再度垣間見れる名シーンだ。その後に流れるMr.Childrenの曲名が「Starting Over」というのは聊か出来過ぎだろう。「闇」という不穏分子を抱えながらも、最後には必ず綺麗な場所に着地させる、細田監督作らしい映画だった。


さて、今作は見てわかる通り「人間とバケモノ」という二項対立をメイン・テーマに据え、そこから『白鯨』で示唆したように「自分自身との対峙」を突き詰めていく。最初の猪王山と闘っていた熊鉄の姿、そして闇に堕ちた人間の一郎彦の姿、そしてかつて新宿の街で立ち竦んでいた過去の自分の姿(全身真っ黒で目だけ光っている姿はバケモノのようだった)。九太の鏡となる姿は九太自身のターニングポイントとなる瞬間に現れる。また、最後に人間であったはずの一郎彦のほうがバケモノよりもよっぽどバケモノのようになってしまったのはあまりに皮肉的だったが、そうしてバケモノになってしまった一郎彦に「一歩間違えれば自分もこうなっていたかもしれない」とあったかもしれない未来の自分の姿を重ねたことで、九太は一郎彦を仇として討ち取るのではなく「暴走を止める」決断ができた。宗師が「決断力の神になる」と宣言していたのはある意味伏線だったわけだ。


あと、最初から最後まで九太のそばにいたチコだが、あからさまに「亡くなった九太の母親」だという事実が提示されており、逆に(これは母親じゃないのでは…?)という深読みをしてしまうほどだった。
ⅰ)九太がバケモノの世界に来て1日目の朝に現れる
ⅱ)熊鉄の動きを真似ろと九太にアドバイスして成長を促す
ⅲ)写真立ての隣に座っている時に母の声が聞こえてくる(九太には聞こえていない)
その他にもチコ=母親を印象付けるシーンが多くあって、まあ実際そうなのだろうけど、チコ=母親だとわりと早い段階で観客に気付かせてしまうのは勿体無いと思ってしまった。母親の姿を見せるにしても、それをチコと関連付けるのは最後の最後でもよかったはずだ。ここらへんが唯一この映画に覚えた物足りない部分。


全体的に見てみると、『劇場版デジモン』シリーズで培われたバトルの迫力、『時をかける少女』の甘酸っぱさ・ノスタルジー、『サマーウォーズ』の派手さ・ワクワク感、そして『おおかみこどもの雨と雪』で示した「多種族同士の共存」という問題が全てバランスよく詰め込まれた、細田守の集大成という感じだった。しかし「全てを出し切った」という風でもなく、むしろここからが始まりだと言わんばかりのフレッシュさ、エネルギーに満ち溢れていて、次作あたりでいよいよジブリに肩を並べる大傑作を生み出してしまうのでは、という気さえする。もちろん『バケモノの子』自体も老若男女問わず楽しめる傑作であることに違いない。「ポストジブリ」という重圧に押し潰されずよくここまでの作品を生み出せたなと感心しきりだ。しかし声優のキャスティングや、細かい粗を気にさせないくらいのシナリオの力強さに関してはまだまだ向上の余地がある。ジブリが見せられなかった(まだ見せていない)アニメーション映画の未来、それを近いうちに見せてくれることを願っている。