2015年春期アニメ総括
とある作品が全16話という1クールと2クールの中間のような枠で放送されていた+『マッドマックス』を見て完全に「雑感を書く」という行為そのものが虚しく感じられてしまったために1ヶ月以上遅れることとなった。マッドマックスを自宅で鑑賞するためだけにホームシアターシステム一式買い揃えようかと本当に真剣に検討している。幸いにしてレコードを聴くために数少ない部屋のひとつを防音仕様に改装したので、どうにかしてそこにホームシアターを組み込めないかと考えていたら7月が終わってしまった。2015年、体感的に2014年より早く進んでいる気がする。しかし、おれがつらいつらい言っているうちに勝手に時が過ぎ去ってそれを早いと感じられるならまだ恵まれているほうなのかもしれない。
いつもの
評価方法
・評価ポイントは「ストーリー」「キャラクター」「演出」「作画」「音楽(OP・ED含む)」の5つ。各10点満点
・総合評価(ランク)は「SSS」「SS」「S」「A」「B」「C」「D」「E」「F」「Z」とする(各説明は以下参照)「SSS」~生涯愛せる、墓場まで持って行きたい作品
「SS」~アニメの金字塔レベルの作品
「S」~何度観ても面白いと思える名作
「A」~傑作
「B」~秀作
「C」~良作
「D」~凡作
「E」~駄作
「F」~超駄作
「Z」~黒歴史
レーカン!
ストーリー 7
キャラクター 6
演出 7
作画 5
音楽 8
総合得点 33点
総合評価 C
おれには霊感というものが全く存在しない。幽霊を見たことすらない。しかし見えないからこそ怖い話にはわりと興味がある。古今東西様々な怪奇現象の話を読んだりホラー映画を見たり、そういうことにハマっていた時期がだいぶ昔にあったのだけど、『ほん怖』に代表される心霊再現ドラマみたいなのはどうにも好きになれなくて、というのもあれらは「怖がらせる」のと「驚かせる」のを同一視しているからだ。必ずしも「怖がらせる」=「驚かせる」ではない。最後まで読んで/聞いて改めて意味がわかる怖い話とかいっぱいあるじゃないですか。突然後ろから幽霊が出てくるとか、鏡見たら後ろに幽霊が映っているとか、そういうのはもう見飽きてしまったのだ。特にドラマはもうカメラワークのパターンが出尽くしてしまったように思う。
そうそう、怖い話といえば中学時代に友人たちと体験した死ぬほど怖い話があった。塾帰りの夜9時頃に友達3人で路地を歩いていたら、突然前から女が絶叫して物凄い勢いで走ってきて、よく見たら顔は異常なまでに引き攣っていて、とにかく捕まったら殺されると思って友人たちと全速力で逃げ出した、という中々説明の難しい体験をした。あれからもう10年経っているのだけど、未だにおれの人生の中ではあれが一番怖い体験だった。あの時の友人たちは遠く離れた場所で就職してしまい中々会う機会が無くなったのだけど、会うたびに必ずあの話題が出てくる。あの女は何だったのだろう、という話の答えはおそらく永遠に見つからない。
さて『レーカン!』である。タイトルから幽霊を題材にした作品だということは伝わるが、「怖がらせる」のではなく「笑わせる」「感動させる」の部分にスポットが当てられた作品だということは原作を読んだり監督の素性を知っている人間でないと見破れなかったのではないだろうか。これがもし水島努監督作だったら確実に原作読んでいないと作風が分からなかった。ともかく『レーカン!』はハートフルな雰囲気を重視していて、序盤では霊のネタありきで物語を作っているのが丸分かりでつらかったが、中盤以降は物語の中に霊のネタを織り込むことで自然と頭の中に入ってきた。ただ、笑わせようとしている部分が常にワン・パターンで「あ、これからボケようとしているな」と分かってしまうのが勿体無かった。
特にギャグ要員を代返侍に押し付けたあたりにつらさがあるが、コギャル霊のエピソードは幽霊という要素を超えたところにある人間関係を描けていて素晴らしかったし、主人公の天海響と母親のエピソードも良かった。12話が天海響の内面、個人的な問題の解決のためのエピソードで、13(最終)話は天海響の外面、自らの霊感を知っても尚一緒にいてくれる友達との絆を再確認するエピソード、という役割なのは分かったが、12話のあとに13話を見てしまうとどうにもパンチが弱いと感じてしまう。これ13話のあとに11,12話をやれば上手く収まったのではないか。まあしかし、地味ながらじんわり身体に染みてくる良作であることには違いない。学校や会社で日々精神をすり減らしている人間ほどこのアニメの効力が分かるのではないだろうか。
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続
ストーリー 7
キャラクター 9
演出 9
作画 8
音楽 8
総合得点 41点
総合評価 A
間違わない人間はいない。人間だから間違っていく。間違って間違って間違って、それでも間違って、ようやく最後に正しい場所へ到達できる。その営みこそが人生で、おれたちは間違いが最小限で済むように軌道修正しながら生きている。将棋と同じだ。もっとも隙のない形は対局始めの形だ。駒を動かしていくことで徐々に隙が生まれてくる。先に相手のその隙を突いた者が勝つ。人の一生において最も完璧でクリーンな状態は生まれた時だ。そこから時間を重ねるごとに汚れていく。少しずつ進む道を間違えていく。先に理想の生き方に見切りをつけた者が勝つ。そういう生き方ができなかったおれのような人間は死ぬまで汚れていくだけだ。
人間が間違っていく過程を克明に記した作品、それが『やはり俺たちの青春ラブコメは間違っている。』シリーズだ。これはラブコメではなく人生訓だ。それも「人との距離の測り方」に焦点が絞られている。人間ドラマを主体とする作品においてこれほどテーマを絞った作品は珍しい。既に間違えてしまった人間への救済であり、まだ間違っていない人間への警告だ。ラブコメなんて生易しいものはここには存在しない。しかし2期は些か真面目過ぎた。1期にあったキャラ同士(特に八幡と雪乃)の軽妙なテンポの良い掛け合い、適度な箸休め、そういったものが削ぎ落とされ、複雑に絡み合った人間関係の問題のみを扱う。そうした人間関係が端的に現れていたのが会話の省力化・抽象化だ。核心を突かないような迂遠な台詞回しは時に理解するのに結構な時間を要する。
会話劇が主体のアニメでその会話内容が分かりづらい、というのは致命的だった。もちろん全てがそうだというわけではない。ただあまりに回りくどい言い回しが多すぎて半ばポエムと化してしまっていたのが残念だった。おそらく原作はそうした会話をしっかりカバーしているのだろう。しかしアニメとなるとそうした部分がばっさりと削られたようで、原作既読者とそうでない者との間に理解の差が生まれてしまった。とりわけ主人公の比企谷八幡、ヒロインの雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣の3人のみの空間で行われる会話は指示語が多すぎて中々理解に苦しんだ。「本物」が示すものは各々にとっての何であるか、ということを予め念頭に置かなければ一見しただけでは全てを理解することは難しい。
とはいえ、やはりバトル・ファンタジー要素が一切無い近年の学園ものの中では突出した作品であることは間違いない。それでいて非常に日本的な作品でもある。曖昧で、刹那的で、抽象的で、掴み所のないものを美しく感じさせる。八幡たちの高校生活は長い人生の中においてはほんの刹那的な時間に位置付けられるかもしれない。学生の時に人間関係に悩んでいた人間ほど社会に出るとその縛りの緩さに驚く…みたいな話は有りがちだが、八幡と雪乃に関しては人間関係の中での個の在り方、個人を集合体にどのように結び付けるか、その関わり合い方、そして前述した「人との距離の測り方」を模索していて、由比ヶ浜結衣の抱える問題とはベクトルが違う。まったくもって歪でちぐはぐな3人がこの作品の世界の中では奉仕部として強く結び付き始めている、というのはまさにフィクションの為せる業と言うべきか。それでもおれとしては1期で見せた比企谷八幡の自虐的なモノローグに期待していたので、この2期における八幡のモノローグのポエム化にはやはり一抹の寂しさを感じるのであった。
魔法少女リリカルなのはViVid
ストーリー 5
キャラクター 5
演出 6
作画 3
音楽 8
総合得点 27点
総合評価 D
ガキの頃は時間が経つのが遅い日と早い日があって、それらが一定の周期で訪れることで上手くバランスがとれていたのだが、社会の歯車になってからはとにかく時間が経つのが早い。このまえ年を越したばっかりだと思っていたらもう半年経っていたし。しかし決して毎日が充実しているから時間が経つのがあっという間とかそういうことでもなく、ただ無為に日々が過ぎ去っていくのを成す術なく見ているだけだったりする。
『魔法少女リリカルなのは』という作品に初めて出会ってからもう10年近く経っている、という事実もまた時の流れの圧倒的な早さを感じさせるのでつらい。10年前はもっと人生に希望を持っていたはずだ。インターネッツには「学生時代は暗黒期だった」という人間がわりと多く観測されるが、おれにとっては学生時代が人生のほぼ全てだったと言っても過言ではない。なんであんなに楽しかったのかよく分からないが、とにかく楽しかったのである。
話をリリカルなのはに戻そう。なのはといえば戦争だ。「なのは派 vs フェイト派」はまず間違いなく歴史に残るであろう闘いだった。当時のおれは「まあどちらかといえばフェイト派かな」程度のぬるい人間で、日々第一線で凌ぎを削っている兵たちの様子を遠くからぼうっと眺めていた。あれだけ熱量の高い戦争はもう見られないかもしれない。そう思うとやはり殊更に10年前が恋しくなるのである。正直おれは『なのはシリーズ』に関してはそこまでの思い入れもないのだが、理屈抜きで人々が本能を剥き出しにして思いの丈をぶつけ合う姿を見てしまうと、もっと真面目に見ないと駄目だなと思わされる。
そして10年前の兵たちにとっては待望の、なのはシリーズを知らない者にとっては初めての、なのはシリーズ最新作『魔法少女リリカルなのは vivid』が今春から始まった。驚くべきことに、なのはについて全く知らないという世代がついに台頭してきたのだ。「リアルタイムで放送見たけどつまらないから見るのを止めた」とかそういうのではなく、単純になのは1期放送時にまだ幼稚園・小学生だったという恐ろしき世代である。おれは自分のことをまだ若者だと思っていたが、あと2〜3年もすれば界隈からはおっさん扱いされるのだろう。悲しいが確実に世代交代は進んでいる。しかしおっさん世代に片足を突っ込んでいるおれのような人間でさえ、このvividはあまり面白いとは思えなかった。ましてや過去のあの熱量を呼び覚ますなんてのは到底無理だ。それを裏付けるかのように、作画は最初から最後まで不安定なままだった。折角の水橋かおり主演作品だというのにこの勿体無さ。またひとつの希望が失われてしまった。
長門有希ちゃんの消失
ストーリー 8
キャラクター 6
演出 8
作画 7
音楽 7
総合得点 36点
総合評価 B
2006年といえばおれの人生の絶頂期であることはあまりにも有名だろう。高校受験を控えていながら「まあ何とかなる」と高を括り友人たちと遊び尽くし、彼女もでき、部活にも励み、毎日が楽しかったあの頃のことは今でもよく思い出せる。悩みらしい悩みもなく、何も考えずに生きていたあの頃。『涼宮ハルヒの憂鬱』が放送されたのも2006年だった。人生が充実していると視聴したもののほとんどが記憶の中で美化されていくようで、あの頃に見た映画やドラマやアニメのほとんどは面白かったと記憶しているのだけど、このハルヒシリーズはとりわけ思い出深い。2006年の第1期の時点でおれはかなりハマっていたし、2009年2期の伝説の「エンドレスエイト」にも嫌悪感を抱くことはなかった。むしろこれを延々と続けられるのは凄いと思っていた。
そしてそうした積み重ねがあっての映画「涼宮ハルヒの消失」は京アニが全精力を注ぎ込んだ傑作で、この頃から人生が緩やかに下降していくのだけど、そんな未来を微塵も思い描かせないくらいに「消失」は輝いていた。劇場特典とか関係なく3回観て、毎回すげえなあすげえなあと感心していた。基本的に絵作りが繊細なのに、しっかり劇場作品としてのスケール感、壮大さがあって、派手ではないぶんじわじわと身体に染みてくる良さがあった。あとこれを冬に観られたのは本当に良かった。作品を見る/読む/聴く 時期というのは思っているよりも重要で、冬大好き人間のおれなんかは冬に出会った作品をどうしても高く評価してしまう傾向がある。
さて、『涼宮ハルヒ』シリーズに数多くのスピンオフ作品が存在するのは周知の通りだが、おれにはそのどれもが紛い物のように思えてならなかった。なにせ涼宮ハルヒシリーズは谷川流の作品なのだ。谷川流以外の人間が描く涼宮ハルヒの世界は源流の涼宮ハルヒシリーズとは繋がっていない。キャラクタと設定だけを借りた別物で、それをどこまで容認できるか、というファンの器の大きさが試されていた。ツガノガクが描くコミカライズ版ですら絵の下手さがあまりにつらくて読めなかったおれには到底受け入れは無理な話だった(今では多少マシになっている)。そして涼宮ハルヒシリーズが沈黙する中、ついにスピンオフに過ぎなかった『長門有希ちゃんの消失』がアニメ化されることが発表された。
原作を読んだことすらないおれはとにかく不安でしかなかった。京アニも関わっていないし、長門有希の性格は全然違うし、何をどうやっても失敗する未来しか見えなかったが、蓋を開けると以外や以外、「全くの別物」として楽しめてしまった。キャラクタや特定の設定そのものは涼宮ハルヒシリーズと同じだが、主人公である長門有希が完全に別人なので一般的なラブコメとして摂取できる。合宿という名の旅行なんかはスタッフが入念にロケハンしただけあって、旅の楽しさが伝わってくる良回だった。涼宮ハルヒシリーズの長門有希の人格が戻ってくる中盤あたりも『長門有希ちゃんの消失』としての面白さを感じられたし、何だかんだで丸ごと楽しめたので結果オーライという感じだ。
ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか
ストーリー 9
キャラクター 9
演出 8
作画 8
音楽 8
総合得点 42点
総合評価 A
子供の頃、夏になると従兄弟たちが祖母の家に集まり、色んな場所へと探検に出かけていた。現実世界ではあれらがおれたちのダンジョンだった。昔からゲームをほとんどやらない人間だったので、この探検がまさにダンジョンへの冒険そのものだったのだが、ファイナルファンタジーXが発売されてから少し事情が変わった。ゲームの楽しさというものを身を以て知ってしまった瞬間だった。実際にはその前からポケットモンスターとかスマッシュブラザーズとかポピュラーなゲームはやっていたのだけど、FFはそれまでプレイしたどのゲームとも違っていた。おれは狂ったようにFFXをプレイし続けた。スフィア盤制覇、ブリッツボール制覇、七曜の武器の完全強化はもちろん、やり込みまくって「すべてを超えし者」を倒すに至った(ちなみに一番きつかったのは地獄の「雷避け」だった)。
そこから遡ってFFⅦ、FFⅧ、FFⅨをプレイし、そのあとFFX2というクソゲーにまで手を出した。それでもFF最新作に対する希望を捨てずに、新しく発売されたFFXⅡを発売日に手に入れてプレイした。戦闘のシステムがこれまでと大きく変わったことによる戸惑いもあったが、冒険の楽しさそのものは失われておらず、周りからは評判がそれほど良くなかったFFXⅡも結果的に楽しめた。それ以降のXⅢ、XⅣはプレイしていない。XⅢはプレイステーション3を持っていないため、XⅣはオンラインゲームをやりたくなかったためだ(なのでFFXⅠもプレイしていない)。機会があったらXⅢあたりはプレイしてみたいと思うが、まずプレイステーション3を買わなければならないし、社会の歯車になったためそもそもゲームをプレイする時間がほとんどないのであった。
『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか。』通称『ダンまち』はあの頃の冒険に胸をときめかせていた心を呼び起こしてくれる、フレッシュでありながらどこかノスタルジーを感じさせる、良い意味で2015年らしくないアニメだ。しかし第1話でヒロインであり神様のヘスティアが装着していた青い紐がインターネットでバズったことで、偶然ではあるが(あるいはそこまでヤスダスズヒトが計算していたのかもしれないが)上手く現代に溶け込めた。加えてRPGの王道ど真ん中を歩いていくような展開は常に視聴者の目を引きつける。ダンジョンの攻略の手順などとにかく懐かしさを感じさせる瞬間が多く、見ているだけで童心に帰ることを許してしまうような器の大きさも持ち合わせている。
実際はダンジョンの外、街中とかでの出会いの方が圧倒的に多いわけだが、物語はいつもダンジョンの中で転がっていくあたりに矜持を感じる。ただ、最後に『ログ・ホライズン』のように大量の冒険者が協力して階層主(ラスボス)を倒すという展開は、今まで主人公のベルとそのパーティに焦点を絞っていたシナリオを考えるとやや強引に感じてしまう。あくまで「主人公はベル」という軸だけはブレないでほしかった。最終回は「ベルも巨大なパーティの一員」のように見える話だったのがこのアニメにおける目立った残念な点。しかしながら全体としては前述のように昔懐かしい雰囲気を保っていて、土曜・日曜の夕方枠で放送されていてもおかしくない普遍性とポテンシャルを有している。続編も作りやすそうだ。
終わりのセラフ
ストーリー 7
キャラクター 6
演出 8
作画 7
音楽 4
総合得点 32点
総合評価 C
天使の名前を知るきっかけになったのは『シャーマンキング』だった。そういやテレビアニメ版シャーマンキングは途中から原作とまったく違うシナリオを歩み始めて、それが原作読者から不評だったことを思い出したのだけど、当時のおれは「アニメはアニメで面白い」と思っていたし、何よりあのアニメは曲が良かった。林原めぐみが歌う主題歌からキャラソンアルバムまで全部買い漁った。特に後期の主題歌「Northern Lights」「おもかげ」は本当に好きで今でもたまに聴いている。しかし小学生の頃に見ていた早朝・夕方放送のアニメって2〜3年は放送されていたように記憶があるんだけど、実際は1年程度のものが多くて、あの頃の時の流れはいったい何だったのだというつらさが襲ってくる。
昔のおれは今のおれと比べて圧倒的にバトル・ファンタジーものが好きで、その嗜好を形成していたのはジャンプ・サンデー作品だったのは間違いない。もうジャンプ・サンデーどころか週刊誌さえ読まなくなってしまって久しいが、漫画そのものは読み続けているし、理屈や小難しい設定一切抜きで単純に熱い闘いを見せてくれる作品にはやっぱり惹かれる。しかし90〜00年代でほぼ全ての王道バトル・ファンタジー漫画のアイデアが出尽くしてしまったようで、この10年代においては黄金期の残滓を摂取させられるという苦痛が続いている。まあ基本的路線が00年代で固まってしまったので「そこにいかに肉付けしていくか、あるいはどんな道程を辿るか」という部分に工夫を凝らすのは当然の流れで、だから最近の作品は無駄に設定が凝っていたり、主人公が最初から最強だったりする。
別にそれらが悪いわけではない。冒頭で述べた『シャーマンキング』だってわりと設定は多いし、主人公の朝倉葉は最初から強い。「大衆は何を求めているか」ではなく「自分自身も大衆も面白いと思えるものは何か」を模索した作家の生み出す作品というのはそれはもう面白いものだ。対して「自分が面白いと思うものは大衆も面白いと思うに決まっている」という考えのもとで生み出された作品は総じて駄作に成り下がる。しかし多くの作家は常にクリエイティブな姿勢を要求される。創造力は磨かないと枯れてしまう。だから革新的な作品を目指して自身の思い描く世界をできるだけそのままの姿で表現しようとする。例えそれが自分だけに分かるものだったとしてもだ。
『終わりのセラフ』を見て思ったのは、決して革新的でもないし、だからといって何らかの作品の二番煎じでもない、そして流行りに乗っているわけでもない、作者の確固たる信念がそのまま具現化された作品のようだ、ということだ。しかしこの手の作品によくある作者の自己満足感、独り相撲をしている感覚はない。王道でめちゃくちゃ面白いというわけでもないが、つまらなさも感じさせない。難しいバランスのもとで成立している作品だ。鏡貴也という作家はもともとファンタジーの根っこの部分を表現しようと苦心していたので(『伝説の勇者の伝説』なんかはまさにそう)、こういうものが出来上がっても不自然ではない。まあしかし『伝説の勇者の伝説』のほうが面白い。分割2クールとのことなので2クール目に期待する。
ハイスクールD×D BorN
ストーリー 7
キャラクター 9
演出 8
作画 7
音楽 7
総合得点 38点
総合評価 B
人間の三大欲求といえば食欲、睡眠欲、そして性欲だ。よく「欲望に忠実」という言葉を見聞きするが、それは元を辿ればこの3つのどれかを剥き出しにするということだ。おれは中高生の頃に「寝る時間が勿体無い!3時間くらいでいい!!」と無茶を重ねた結果、20歳を過ぎてから突然急激に眠気に襲われる身体になってしまった。とにかく眠い。夜中1時まで起きているのさえつらくなった。若い頃に無茶をすると後々ツケが回ってくるという典型的な例だろう。今中高生のみんなはどうかおれのような人間を反面教師にして清く正しく生きてくれ。
そして欲望は感情と密接に結びつく。喜怒哀楽は感情の最たるものだ。笑ったり怒ったり泣いたりすることは人間の根本にある感情である。「欲望を剥き出しにする」ということはすなわち感情を剥き出しにするということに他ならない(睡眠欲除く)。で、ついに3期まで到達したこの『ハイスクールD×D』シリーズは「性欲」と「笑い」という人間の原初の感情を素材としてそのままの形で提供するオーガニックアニメだ。1期からやっていることは一切変わらない。シナリオが斬新なわけでもない。それでもここまで続けてこられたのはこの徹底されたオーガニックぶりによるところが大きい。
一切取り繕わず、やりたいこと/見たい絵面をとことんまで追求していく。その潔さは複雑化したこの高度情報化社会だからこそ染み入るように効いてくる。主人公のイッセーはおそらくもう一生分の「おっぱい」という言葉を口にしているはずだ。それでも自身の性に対する探究心をより深く、より強く研ぎ澄まそうと鍛錬する。その鍛錬が戦闘能力に直結しているところがこの作品の肝だ。イッセーが己の欲望を満たせば満たすほど、イッセー自身の戦闘能力は高まっていく。同時に欲望に溺れた人間は闇に堕ち、イッセーの前に立ちはだかる。これ以上ないくらい分かりやすいシステムだ。
ただ、相変わらず最終回付近になるとやや失速するのが気になった。どう考えてもこの3期に関してはアーシアを取り戻すエピソードのほうが最終回に向いている。これは4期を見据えてのことなのか、単純に何も考えていないのか、何のアナウンスもない現段階では分からないが、最終回でロス・ヴァイセがリアスのルークになった時にアザゼルが「これからがグレモリー眷属の本番」と言っているし、すべての駒が揃ったこれからが本当に本番なのだろう。ここまで来たらもう原作が完結するまでアニメも続いてほしい。
ガンスリンガー ストラトス
ストーリー 5
キャラクター 5
演出 5
作画 5
音楽 8
総合得点 28点
総合評価 D
ゲームをあまりプレイしないおれでも『スマッシュブラザーズ』シリーズは一通りプレイした。小学生の頃にやり込んで、中学生の頃には校内最強の座(友人談)にまで上り詰めた。まあしかしあれからもう10年近く経っているので、さすがに今なおゲームをプレイしている人間には勝てない。スマッシュブラザーズはおろかゲームすらやっていない今、あらゆる対戦ゲームに放り込まれてもボコボコにされるだけだろう。
スマブラで強くなったのは「レベル9のコンピューター3体 vs 自分ひとり」というチーム戦をひたすらこなしていたのが影響していると思っている。敵との距離の取り方、適切なタイミングでの攻撃、なるべくガードを使わず相手の攻撃を緊急回避やジャンプでかわす…といったノウハウを独学で身に付けた。特に、自分の持ちキャラをコンピューターに使わせ、その戦術をコピーするというのはかなり有効な鍛錬だった。しかし、今となってはそこらへんの知識もほとんど記憶の引き出しの奥に仕舞われてしまった。
「同じキャラを使う」というのは格闘ゲーム特有の光景だ。2人が同一のキャラを使っていて、画面上には色違いの同じキャラが向かい合って立っている。そんな光景は格闘ゲームではよく見られるが、よくよく考えれば異常事態だ。『ガンスリンガー・ストラトス』はそんな異常事態を逆手にとってシナリオの核にしてしまうという、非常によく考えられた設定が持ち味のアニメだ。そう、設定自体は素晴らしかったのだが、それをベースにしたはずのシナリオがいまいち盛り上がらなかった、もっと言えば設定に溺れてしまったのが勿体無かった。
理路整然とした秀逸な設定を作れたのだから、その肉付けはそこまで分厚くなくていい。単純に二つの世界の者同士が闘い、最終的には和解するという展開に留めておけばよかったのだ。そこに様々な要素をぶち込んでしまったがために、シナリオが歪んでしまった。最終的に上手く帳尻を合わせてきたのは良かったのだけど、どうせなら最初から最後まで一本筋の通った物語を見たかった。やはり虚淵玄が関わっていなかったのが駄目だったか。テレビ版とWeb版で各話の内容が微妙に異なり、その異なりが収束した最終回の結末が違う、という試みが非常に面白かっただけに勿体ない。
Fate/stay night [Unlimited Blade Works]
ストーリー 10
キャラクター 9
演出 10
作画 9
音楽 7
総合得点 45点
総合評価 A
忘れもしない2006年1月、『古畑任三郎 ファイナルシリーズ』が放送されていた時期だった。『Fate/Stay Night』に初めて出会ったあの時、まさかこのシリーズが約10年後まで続いているとは夢にも思わなかった。そして10年後のおれがこんなことになっているとも夢に思わなかった。高校受験を控えていながら「まあ何とかなるだろ」と楽観視し遊びまくっていたあの頃。結局第一志望の高校には落ちたのだけど、第二志望で受かって入学した某仏教系の高校がめちゃくちゃ楽しかったので結果オーライという感じだった。おれは今という瞬間瞬間が楽しければそれでいいというタイプのクズなので、そうしたツケが今になって襲ってきているのだと考えれば社会の地獄ぶりにも納得がいく。
「あまり良くなかった」という評判が多い『Fate/ Stay Night(通称DEEN版)』ではあるが、おれは以前も言ったようにわりと好きな作品だった。かなりの粗が目立つ作品ではあったが、それを帳消しにしてくれるくらいの魅力があって、そういう力業に徹する美学というか信念が好ましかった。一転して、このufotable版『Fate/stay night[Unlimited Blade Works] 』はとにかく絵作りが繊細。『Fate/Zero』の時点でもう明らかだったのだけど、ゼロは「豪快な作画」という印象で、今作はゼロより派手な戦闘が少ないぶん作画の細やかさが目立った。そして異常なまでに遠坂凛に入れ込んでいる。もちろん衛宮士郎よりも主人公として活躍しているから、という理由もあるだろうが、それ以上にヒロインとしての遠坂凛のインパクトが強い。
DEEN版におけるヒロインはセイバーだったが、こちらのufo版のヒロインは完全に遠坂凛だ。その正妻力は凄まじく、セイバーを含め他の女性を寄せ付けないパワーがあった。DEEN版だけ見ていたら気付かなかったであろう遠坂凛の新たな一面とその魅力に気付けただけでも充分に意義あるアニメ化だったと言える。そしてそれ以上に、メインヒロインが変わろうがシナリオの枝葉が変わろうが、全くブレることのないシナリオの根幹の太さ・盤石ぶりには驚かされた。もちろんゲーム原作なのでルート分岐はあって当然なのだが、アニメでそれをしっかりやって、一切の破綻なく2つの物語を成立させてしまう、というのは至難の技だ。改めてFateという作品の芯の強さを思い知った。
Fateという作品は進むルートが何であれ、とにかく「過去に縛られている」という事実を必要以上に提示してくる。それは主人公の衛宮士郎や、今作のヒロイン的な立ち位置の遠坂凛はもちろん、英霊となって召喚されたセイバーを筆頭とするサーヴァントたちや、聖杯そのものにも当てはまる。これほど「因縁」というテーマが御誂え向きな作品はそう無いだろう。ほぼ全ての戦いには大小の差はあれどドス黒い因縁が付き纏っていた。あらゆる要素は過去と現在の対比、過去に縛られ続ける者と未来を目指すものとの違いを浮き彫りにするための駒に過ぎない。人間ドラマというにはあまりに黒く、バトル・ファンタジーものというにはあまりに生々しい。常にジャンルに縛られることなく、孤高の道を歩み続けていた。まだ暫くはFateシリーズが前線で闘うことだろう。
プラスティック・メモリーズ
ストーリー 8
キャラクター 9
演出 9
作画 9
音楽 8
総合得点 43点
総合評価 A
明らかに感動を誘っている作品に対して、それだけでハードルを上げる人間とハードルを下げる人間の2つにはっきりと分かれてしまうのはもう仕方のないことだ。「泣ける!」と銘打たれた映画の宣伝だけ見て「うわーこれ良さそう!!!」と思って映画館に直行する人間と、「またこの手の釣り針の大きなお涙頂戴の安っぽいメロドラマかよ」とげんなりする人間。どうせなら何も知らない純粋な少年のままでいたかったおれは前者のような人間に育ちたかったが、残念ながらそうはいかず、何事も疑ってかかる後者の人間に育つことになった。そもそも育ち方を間違えたせいかおれは親子もの以外では感動できない人間になってしまったので、たかだか恋愛ごときで感動させられるかよアホかというクズと呼ばれるに相応しい思想を持っている。
そもそも人はどういったメカニズムで感動しているのか、当の本人であるおれたちでさえ実際のところよく分かっていないし、そういう理屈で解明できない部分が人間の半分以上を形成しているんだから文系馬鹿にしてるやつは全財産巻き上げられた上でシベリアに強制送還されろといつも思っているが、まあそれは置いておくとして、何にでも「感動した!!!」と言っているやつがどうにも馬鹿っぽく見えるのだけど(小泉批判でないことだけは分かってもらいたい)、もしかしたらそれは人よりも感性が柔軟ということなのかもしれない。でもやっぱり恋愛もので感動、まして泣くなんてことはおれには理解できない領分なわけです。こんなおれでもまともに付き合ってた人間はいるし別れも経験しているので、感動は経験に左右されるということはないと思う。そもそも経験に左右されるならおれが親子ものに弱い説明がつかない。
いよいよ話が迷宮に突入しそうなので『プラスティック・メモリーズ』に戻ろう。これはもう紛れもないお涙頂戴ものである。「お前ら泣けよ、ほら泣けよ!!」という製作者たちの意思を隠そうともしないあたりが清々しい。しかしそんなお涙頂戴ものでも、第1話でいきなり久野美咲が熱演した親子もののエピソードをぶっ込んできたせいで単純馬鹿なおれは「ああ…名作かもしれない…」と思い込んでしまったのだ。だがこのアニメの主軸はあくまで「ギフティア(アンドロイド)のアイラと人間のツカサとの短い間の恋愛」だった。おれは少女漫画にありがちな能天気なラブコメとかはわりと好きなのだが、明らかに感動を誘うために用意された恋愛というのは苦手だったりする。具体的には『余命1ヶ月の花嫁』みたいな、男か女どちらかが死にかけていたり別れが決まっていたりするタイプの話だ。
別れや死は恋愛のみに紐付いたものではない。別れや死は誰にでも平等に訪れる。決して恋愛のためだけに訪れる不幸ではないし、それに直面している僕たち私たちが世界で一番不幸みたいなその雰囲気が気に入らないのだ。恋愛をしていない人間に訪れる別れや死のほうがより不幸な場合だってある。で、『プラスティック・メモリーズ』はそうした系譜の作品かと思っていたら、「ギフティアであるアイラの記憶が消えてしまう」というのが「別れ」の代わりになっていることが明らかになり、「ああそれなら単純な別れや死より不幸の度合いは小さいな」と思いがちなのだけど、中盤に記憶を失ったギフティアが暴れ出すエピソードを挟むことにより、そんな単純な話ではないのだなと視聴者に気付かせる。
『プラスティック・メモリーズ』における「記憶の喪失」というのは死別に近い苦痛をもたらすのだ、という事実が明らかになってからは、ツカサとアイラに残された時間の少なさがどれほど残酷か、いかに切迫した状況下におかれているかということが伝わってくる。機械と人間の交流というテーマは昔から扱われていたし、機械と人間の恋愛も無いわけではない。『プラスティック・メモリーズ』は取り立てて斬新なことをやってはいないのだが、アイラがもう普通の人間とあまり変わらないように描くことで「人間と機械の別れ」を「人間同士の別れ」だと視聴者に錯覚させている。ここらへんはこの手の作品では珍しいのではないだろうか。
しかしこれだけ御膳立てをしておいて、最後の最後でツカサのその後を描くというのはやはり何か間違っているように思う。タイトル『プラスティック・メモリーズ』から分かるようにこの作品の本当の主人公はアイラだ。なのにアイラ(の記憶)を失ったツカサがアイラ無しで成長していく様子を描くというのはアイラに不義理というか、穿てばアイラはツカサの成長のための糧だったのか、というように見えてしまう。あくまで物語の中心は最後までアイラであってほしかった。
うたの☆プリンスさまっ♪マジLOVEレボリューションズ
ストーリー 5
キャラクター 9
演出 9
作画 7
音楽 8
総合得点 38点
総合評価 B
女性アイドルグループと比べて男性アイドルグループは1グループあたりのメンバーの人数がやや少ないように感じる。最近見た中で一番多いなと感じたのは「HEY SAY JUMP」なんだけど、あれでも10人しかいないらしい。女性アイドルグループはAKBを至る所で見掛けるせいで「数が多い」と感じるのだけど、ももいろクローバーZなんかは5人だし、このアイドル戦国時代において一概に「メンバーの数が多い」とは言えなさそうだ。あと女性アイドルグループはメジャー・インディーズ含め様々な事務所に所属しているのに対し、男性アイドルグループはほぼジャニーズ一強だ。「男性アイドルグループと言われればジャニーズ」と思う人も多いのではないだろうか。
あと男性アイドルグループはとにかく寿命が長い。SMAPなんて未だに最前線で活躍している。TOKIOは農業という新たな活路を見出して再びスターダムへのし上がった。嵐や関ジャニ∞もいずれはSMAPやTOKIOのような立ち位置になるのだろう。しかし寿命が長いからこそ、下の世代がいまいち爆発できないでいるのもまた事実だ。Kis-My-Ft2やSexy Zoneなんかは全盛期のSMAPや嵐ほどの勢いは未だにないし、更にその下のA.B.C-ZやジャニーズWESTなどは知名度自体があまり高くないのではないか。かく言うおれ自身もこの2組は知らなかった(インターネットとジャニーズオタクの女性に色々教えていただきました、本当にありがとうございます)。
女性が同性である女性アイドルグループもわりと積極的に興味を持つのに対し、男性が同性の男性アイドルグループに興味を持つ、という構図はあまり見かけない気がする(いやもちろん男性アイドルが好きな男性もいるんですよ、友人で嵐のファンクラブに入っているやつもいたし)。ここらへんの話題を掘り下げていくと『うたプリ』と関係ない話になってしまうので置いておくとして、男性アイドルグループというのは女性向けに特化した楽曲やパフォーマンスを披露することが多いのは事実だ。ではそれが二次元の世界ならどうなるのか、という話である。さあここでようやく本作『うたのプリンスさま』の登場だ。
『うたのプリンスさま』は他の女性向け作品(乙女ゲーム原作アニメ)と比べると明らかに異質だ。乙女ゲーム原作やそのアニメが迷うことなく女性だけをターゲットに絞って、女性を痺れさせる台詞や格好良い姿や声を映し出すことに全力を注いでいるのに対し、この『うたプリ』シリーズはそうした「女性のみをターゲットに絞っている」こと自体を皮肉るかのようなアニメになっている。ED曲における異常なまでの女性の黄色い声援などを聴けばそれがよく分かるだろう。男性アイドルたちの「格好付けすぎて逆に面白い」仕草や台詞回しやパフォーマンス、その全てが男性でも笑えるギャグとして昇華されているのは毎シリーズ感じていることだが本当に素晴らしい。これは以前述べた「誰も傷つかない(極めて高度な)笑い」である。女性は男たちの突き抜けた格好良さに笑いながらも惹かれていくし、男性はそのあまりの下らない弾けっぷりに何の気負いもなく笑うことができる。これは不必要な争いを生まない、見た者すべてが幸せになれる類のアニメだ。だからこそ最終回の頭悪すぎる展開も広い心で許せてしまう。こういう作品に出会えるからおれはまだアニメを見ることを止められないのである。
てさぐれ!部活もの すぴんおふ プルプルんシャルムと遊ぼう
ストーリー 10
キャラクター 10
演出 9
作画 7(?)
音楽 6
総合得点 42点
総合評価 A
世間はアドリブというものを甘く見過ぎだと常々思っている。アドリブというのはいくら努力を重ねたところで上達できる類の能力ではない。もちろん今まで頭に詰め込んできた知識もモノを言うひとつの要素ではあるが、それ以上に脳味噌の柔軟性だったり、会話だったら相手の投げてきたボールを見極めてそれを誰もが予想し得ない方角へ打ち返す必要がある。今お笑い界のトップに君臨している芸人はみなアドリブ能力に優れていることは言うまでもないだろう。もちろんお笑いだけではなく、役者でも優れたアドリブ能力を有している人間はいる。そして声優のアドリブ能力を引き出そうとした革新的なアニメを次々に生み出してきたのが、皮肉にも芸人畑から出てきた石館光太郎(ダテコー)だった。
『gdgd妖精s』に端を発した3DCGアニメと声優ラジオの融合とでもいうべき石館監督作の数々における実験と試行錯誤は、ついにこの『てさぐれ!部活もの すぴんおふ プルプルんシャルムと遊ぼう』で実を結んだ。2013年『てさぐれ!部活もの』と2014年『てさぐれ!部活もの あんこーる』の続編でありながら、この世にまだ存在しないアニメ『プルプルんシャルム』のキャラクタを登場させるという異常さを見せ付け、アドリブ中心のプレスコに不慣れなキャスト陣を無理矢理引っ張ってくるという破天荒さ、そしてアドリブに不慣れな『プルプルんシャルム』のキャスト陣たちの初々しいアドリブ大喜利に対し、『てさぐれ』シリーズでアドリブに慣れてしまったキャスト4人がそこらへんの芸人を薙ぎ倒してしまうほどの爆発力をもった大喜利を披露して格の違いを見せつけるという凄まじい構図が出来上がっていた。
「遊園地にロケに行き、その様子をそのままアニメ化する」「人狼を実際にプレイしてその様子をそのままアニメ化する」という2つのネタが本当に素晴らしいというほかなく、不覚にも呼吸が苦しくなるほど笑わされてしまった。遊園地ロケの他にもお化け屋敷や動物園ロケがあって、それら全部が見事に当たっているのは凄い。「人狼」に至っては笑いどころもありながら最後の最後で驚愕の真実に辿り着く、という普通に傑作の王道を辿っている始末である。回を重ねるごとに『プルプルん』のキャスト陣がアドリブトークに慣れてくるのも見所のひとつだ。中でも『てさぐれ』シリーズからの刺客の荻野可鈴と『プルプルん』からの刺客の上坂すみれが一騎打ちする第9話は見応えがあった。全く違う学生時代を過ごしてきた2人が相見えるとこんなことになるのか、という知見を得られた。
途中で石館光太郎が監督を降板したという不穏な点を除けば全体的に賑やかで常に笑いどころのある、石館光太郎が今まで目指してきたものが達成された、まさしく集大成的な作品になっている。石館光太郎の手掛けた作品の中ではこれが断トツで一番好きだと自信を持って言える。しかし総集編の11話は石館作品の中でも最低レベルで酷い出来だった。あんなもん作るくらいなら普通に総集編やってくれたほうがまだ良かった。12(最終)話も相当酷かったが、11話に比べたらまだマシだった。そもそもキャストのスケジュール押さえられないというのはどういうことなんだ。普通のアニメでは考えられない事態だぞ。それとスタッフ内での揉め事が表面化してしまったことなども含め、決して満点とは言えない出来だったが、それでも過去作の中では突出した完成度であることは間違いない。ここまで到達した石館光太郎が次にどんな作品を生み出し、どんな声優がその餌食になるのか、楽しみに待っているとする。
SHOW BY ROCK!!
ストーリー 8
キャラクター 9
演出 8
作画 8
音楽 10
総合得点 43点
総合評価 A
ロック・ミュージックはこの2010年代においてほぼ死に絶えているといっていい。今や最先端の音楽はポップ・フィールドに集中し、焦燥感や何かに対する怒り、政治的なメッセージなどは音楽に求められないようになった。求められているのは一時の慰みになるような安っぽい大衆向けにカスタマイズされたポップ・ミュージックだけ。当然、ロック・ミュージックは行き場を失い衰退していった。もうストロークスの『This is it』やグリーン・デイの『American Idiot』のような刺激的なロックは生み出されないのかもしれない。しかし、EDMがポップ・ミュージックの中心に座している海外においては、今でもエレクトロやヒップホップのフィールドから実験的な音楽が生み出されている。
では日本の音楽はどうだろう。ミッシェル・ガン・エレファント、ブランキー・ジェット・シティー、ナンバーガール、GOING STEADY…様々なロックバンドが1990年代後半から2000年代前半のミュージック・シーンを席巻した。彼らの音楽は子供達に衝撃と夢を与え、それを見て育ったロック・キッズがアジカンや凛として時雨やLUNKHEADとして今前線に立っているが、かつてのロック・シーン全盛期の時のような勢いは無くなってしまった。2010年代はロック・ミュージックに代わってポップ・ミュージック、それもアイドルが中心となって世に放たれるポップ・ミュージックがシーンを席巻することとなった。確かに、情報量が多く革新的な音楽も生まれてはいるが、それはインディー界隈がほとんどで、メインストリームのポップ・ミュージックは単調でつまらないもので溢れている。
ロックバンドの勢いも無くなってきた。今シーンの前線にいるバンドは高く細いボーカルと4つ打ちの応酬だ。笑えるくらいのワンパターンぶりに呆れを通り越して哀しくなってくる。もう日本のロックは死んでしまった…と誰もが諦めかけたその時、この『SHOW BY ROCK』は我々の前に颯爽と現れた。そう、『SHOW BY ROCK』は日本のロックの救世主だったのだ。ここには日本のロックが失ってしまった魂がある。手描きパートからCGパートへの移行が拙いだの絵柄が萌えキャラっぽくてロックを感じないだの、そんな批判は的外れもいいところだ。このアニメからロックの魂を感じられない人間は早々に切腹するべきだ。
主人公のシアン、チュチュ、レトリー、モアによって結成されたプラズマジカはかつてのロックバンドの姿を髣髴とさせる。ロックバンドに求められるのはカリスマ性だ。プラズマジカは地道に活動を続け、自分達より格上だったバンドを倒し、ついに頂点へと上り詰めた。立ちはだかる悪の組織はプラズマジカと個々のメンバーが成長するために乗り越えなければならない壁だ。そしてロック・ミュージックにとって本当に最も大切なのは、強烈なメッセージ性のある歌詞でも、怒りや焦りをぶちまける荒々しさでもなく、聴いているだけで「何かを変えてくれるのではないか」と聴衆をワクワクさせてくれる圧倒的なパワーだ。魅力と言い換えてもいい。
『SHOW BY ROCK』にはまさしく見るもの全てを惹きつける魅力と、一度掴んだら離さないパワーがあった。もちろんシナリオには詰めの甘い部分があったり、ここの演出はCGに頼らないほうが良かったのでは、という気になる点もあったが、ロックなんてものはそもそも完璧であってはいけないのだ。完璧になれないからこそロック・ミュージックは今日まで演奏されてきたのである。いつの日かシアンが再びゲームの世界に飛び込んでプラズマジカが再結成されることを願ってやまない。
攻殻機動隊ARISE ALTERNATIVE ARCHITECTURE
ストーリー 5
キャラクター 6
演出 7
作画 5
音楽 5
総合得点 28点
総合評価 D
おれは国民的なゲーム・漫画・小説・アニメ・ドラマ・映画といったものを数多くスルーしている。ドラゴンクエスト、ガンダム、ドラゴンボール、101回目のプロポーズ、フォレストガンプ…数え上げればキリがないが、とにかくおれは普通の人間が知っていることも知らなかったりするので、本来なら共通の話題として成立するものがおれには通用しない、ということが多々あった。しかしこれは「みんなが通っているものを敢えて無視するおれ最高!!!」みたいな思想ではなく、単純にちょっと触れて「おれには合わないな」と判断したうえでスルーしているので、そこらへんの意識高いサブカル野郎と一緒にされるのはつらいものがある。
だって娯楽の「基礎教養」なんてこの世に存在しないわけじゃないですか。何が好きで何が嫌いか、何が楽しくて何がつまらないか、そんなものは人の数だけ答えがある縹渺たる価値観の話で、それを一括りにして語るのは無理筋というものでしょう。だからおれは他人の好き嫌いに関して一切の否定はしない。肯定もしないが受容はする。そういう考えもあるよね、そうだね、という受け取り方に身を任せれば誰もが救われるというのに、インターネットの発達により「おれの好きなものはみんな好きでなければならない」「こんなものを好きになるなんておかしい」という不特定多数の意思による一方的な押し付けが罷り通るようになってしまった。
ここでおれたちは攻殻機動隊の主人公である草薙素子の有名な台詞「ネットは広大だわ」を思い出す。広大無辺で様々な価値観が共存していたはずのインターネットの海は、しかしいつのまにか数個の巨大な意思のもとにそれぞれ統合されてしまったかのような息苦しさを感じるようになった。いくら電脳の無機質な世界とはいえ、それを扱うのが人間なのだから根本的な問題は解決しないということだ。たとえこの攻殻機動隊の世界のように、人間が直接インターネットにアクセスできる未来がやってきてもそれは変わらないだろう。
この『攻殻機動隊ARISE ALTERNATIVE ARCHITECTURE』は劇場作品『攻殻機動隊 ARISE』をテレビアニメ用に再構成+新エピソード2話を追加したもので、おれはARISE自体を観ていなかったのでわりと新鮮に視聴できた。しかし攻殻機動隊という作品自体がもう様々な形で消費されているので、ややマンネリ感もあり、そろそろ次の一手がほしい。余談だが新エピソードよりも劇場版の方が遥かに面白かった。
てーきゅう 第4期 / 高宮なすのです!
ストーリー 5
キャラクター 9
演出 9
作画 8
音楽 9
総合得点 40点
総合評価 A
単体でも充分だが、この2作がセットになることでより面白さが増した。てーきゅう6期をやるときはぜひ一緒に高宮なすののほうも2期やってほしい。
旦那が何を言っているかわからない件 2スレ目
ストーリー 3
キャラクター 5
演出 5
作画 7
音楽 9
総合得点 29点
総合評価 D
主題歌が凄く良かった。こちらからは以上です。
ミカグラ学園組曲
ストーリー 6
キャラクター 10
演出 7
作画 8
音楽 8
総合得点 39点
総合評価 B
ノリやテンションの高さだけで生きている人間がこの世には一定数存在する。学生時代は比較的テンションの高かったおれはしかし、社会という現実の闇を突き付けられ、あの頃のような熱量や勢いを完全に無くしてしまった。だからテンションの高いものを見たり聴いたりすると尋常じゃなく疲れてしまう。メジャーシーンのアイドルの楽曲とかはまさにそれだ。何の根拠もない自信というのは生きていく上で必要不可欠だが、何の根拠もなく「人生悪いことばっかりじゃないよ」と他人に言われるのは無条件に腹が立つ。これはわりと多くの人が経験していることなのではないだろうか。テンションの高い人間はもれなくポジティブの押し付けをしてくるのだ。
『ミカグラ学園組曲』もまた常にテンションが高く、ポジティブな空気に包まれた作品だ。一宮エルナは常にプラス思考で何が起ころうと前向きに行動する。正直1話だけだったらこの熱量の高さに鬱陶しさを感じていただろうが、このアニメが本当に凄いところはテンションの高さを寒いと感じさせず、エルナの思想を押し付けがましいポジティブさだと感じさせず、ただ純粋に賑やかなアニメだなーと感じさせてしまうところにある。SHIROBAKOで主演を務めた木村珠莉の声質はイノセントな少女を想起させ、何をやらせても一切の悪意や汚れを表出させないという素晴らしいものだった。主人公のエルナを木村珠莉以外の人間が演じていたらこのアニメは間違いなく失敗作になっただろう。
ストーリーのほうはお世辞にも良いとは言えないものだったが、そこらへんをキャラクタの個性の強さで無理やり押し切っている。とにかく明るい安村ならぬとにかく明るい一宮エルナを筆頭に、変態の二宮シグレと1ミリたりとも可愛さを感じさせないマスコットキャラクタ的要員のビミィという2人+1匹のハイテンションキャラと、ラスボス御神楽星鎖とエルナに依存しきっている藤白おとね、そしてメイドの鳴海クルミという3人のローテンションキャラを上手く組み合わせ、そこに常識人枠の九頭竜京摩・射水アスヒ・八坂ひみ・花袋めいかを足していき、さらに演劇部の面々を加えていく。究極の足し算方式でキャラクタの相関を作り上げていくので複雑怪奇になってしまいそうだが、とにかく各キャラクタが濃いので意識せずとも3話時点でほぼ全てのキャラクタを覚えてしまう。これは素直に凄かった。
そして乱雑なストーリーは奇しくも、最後の最後で『グリザイア』シリーズと同じ「楽園」に辿り着いた。『グリザイア』シリーズにおける楽園が正しく本当の意味での楽園だったのに対して、こちらは居心地の良い場所、そして御神楽星鎖がかつて失い取り戻そうとした空間だ。なんだかんだで上手く話を纏めてくれたし、前年の『メカクシティアクターズ』で強まったボカロ関連のコンテンツへの負のイメージがこのアニメのおかげで薄くなったことは事実だ。やはり一宮エルナの奔放さには嫌悪感を抱くどころか心から救われた時もあって、こういう無条件に作中の人物だけでなく視聴者までも救ってしまうキャラクタと出会えるからアニメ見るのを止められないのだよな、と再確認できた。
響け! ユーフォニアム
ストーリー 9
キャラクター 8
演出 10
作画 10
音楽 9
総合得点 46点
総合評価 S
恥の多い生涯を送ってきた。何より努力をしてこなかった。頑張るということが苦手だった。どうしてそんな人間になったかは今でも分からない。物心付いた時から面倒臭えの精神が宿っていたし、頑張らなくても少年時代はある程度のことは人より上手く出来たせいで、余計に何とかなると思い込んでしまった。しかし高校2年あたりからこれはまずい、ちょっとは努力しないとという意識が芽生え、大学受験のために人生最大の努力をした。大体のことを適当にやっていた自分史上最大の努力だったが、そもそもスタートダッシュの時点で誰よりも遅れていたので、結果的に第一志望の大学へは行けなかった。大学自体は楽しかったのでそのことに関する後悔は無いのだが、もう少し徳を磨くというか真面目な人間になっておくべきだったとは思う。あとおれが通っていた高校の学科は部活禁止だったので、それに関しても心残りがある。別に部活をやりたくて仕方なかったというわけでもないが、華の高校生時代に部活動を経験しなかったのは未だ見ぬ青春の欠落という感じで中々に勿体無い気もする。
部活動といえば今や青春の象徴といってもいい。あらゆる学校を扱った創作において部活動が出ないことはほぼ無いだろう。主人公自体は帰宅部であっても、部活動の存在そのものは必ず示されるはずだ。学校において部活動は個人の力を磨く場所でもあり、仲間との連帯感を高める場所でもあり、時には縦社会の厳しさを経験する場でもある。部活はその気になれば何でも表現できる、非常に自由度の高いものであるため、普通の学園ラブコメものからファンタジーものまで何にでも使える。もちろん『ピンポン』『ましろのおと』『ちはやふる』『この音とまれ』のような熱い部活ものは言わずもがな。飾りに過ぎない部活動から、文字通り人生を賭けた本気の部活動まで、ここ日本には様々な部活動を用いた創作が溢れている。
さて『響け!ユーフォニアム』である。まず初めに言っておくがこれは傑作も傑作、大傑作である。『涼宮ハルヒ』シリーズ、『CLANNAD』『AIR』などの数々の京都アニメーションの傑作にも引けを取らない。ここには青春の全てが詰まっている。決してただの部活もの、吹奏楽部の物語でも音楽を突きつめる物語でもない。吹奏楽を通じて女子高生たちの青春をありのままに映し出す物語だ。最近は部活動の内容描写に留まってしまう作品が多い中、部活動を通じてひとりひとりの人間を描くという当たり前だが非常に困難なことがしっかり出来ていた。この時点でもう傑作であることが保証されているようなものだが、加えて京都アニメーションの圧倒的な作画・演出がこの作品を単なる「物語」ではなく「アニメーション」としても一級品の傑作に仕上がっている。
登場人物の描写も良かった。黄前久美子という人間が自分に似ていたということもあって、おれは途中から自分と重ね合わせるようにして視聴していた気もするが、久美子だけではなく、もうひとりの主人公である高坂麗奈のギリギリのリアリティを保った描写も素晴らしく、この2人の関係性の明確な変化を描いた第8話「おまつりトライアングル」、そして久美子の努力と全員の団結力が実った最終話「さよならコンクール」は間違いなく後世まで語り継がれる回だ。リアリティとフィクション性を両立させる作画のもとで、8話では恋愛や友情といった「点」となる個人個人の関係性を、最終話では部員全員の力が合わさった「面」となる物語を描いていて、この2話が繋がった時に圧倒的なカタルシスが生まれる。
8話で麗奈の内面、単純に吹奏楽に打ち込んでいるのではなく「トランペットを通じて特別な存在になりたい」という目的を知ってから徐々に久美子自身の内面も変化していく。それまで特別な努力をせずとも人よりある程度上手く演奏できていたユーフォニアム、そのソロパートを演奏できずソロパートを解任させられるという出来事があってから、その変化はより明確なものとなった。ユーフォニアムという楽器と向かい合い、何度も何度も失敗を重ねながら着実にソロパートを演奏できるようになっていく。初めての挫折、初めての努力を経て、黄前久美子は本気でユーフォニアム、吹奏楽と向き合い、その先にいる自分自身とも向き合えるようになった。
高坂麗奈は黄前久美子の鏡などではなく、共犯者と言ったほうが正確だろう。第8話における麗奈の心情の吐露はまさしく久美子へ共犯関係を持ち掛ける構図だった。麗奈が久美子の唇に触れるあの瞬間、あれは唇に指を当てる「秘密」のポーズを暗に示している。秘密の共有、それこそが麗奈の持ち掛けた共犯関係だったのである。山に登るまでの2人の微妙な距離での会話、突然名前で呼び合うことを提案する麗奈、そして頂上に到着して夜景を見たときの久美子と麗奈の恍惚とした表情。実写では決して表現できない、アニメーションだからこそ表現できたシークエンスである。このシーンは浮世離れした美しさの中にしっかりとした生々しさを含んだ近年屈指の名作回で、アニメーションの歴史に名を残すことになるだろう。
そう、ED曲「tutti」では主要キャラ4人で歌唱を担当しているのでミスリードされがちだが、このアニメの主人公は2人、黄前久美子と高坂麗奈だった。チューバ担当の加藤葉月と、コントラバス担当の川島緑輝はメイン・キャラクタではあったものの物語の中核を担ってはいなかった。序盤こそ物語の中心にはいたものの、中盤から徐々に様子が変わっていく。葉月の物語は麗奈たち同様に8話で大きく進展するが、同時に終わりを迎えてしまった。久美子の幼馴染みの塚本秀一に対する告白と失恋、そして緑輝からの励ましを経て葉月は物語の脇へと移動する(最後に至ってはオーディションメンバーからも外れてしまった)。緑輝はもともと中心部にいた時もわりと穏やかに傍観者的な立ち位置から久美子たちを見ていた。
こうして中心にいる久美子と麗奈の立ち位置を常に明示しつつ、脇を固めるキャラクタの個性を徐々に開示し、そこから新たな展開を生み出していく。作画が一瞬一瞬のものなのに対し、物語は積み重ねの結晶だ。様々な登場人物の思いが交錯し、やがてひとつの場所に収束し、最終回のコンクールで爆発する。全くもって見事な筋書きだった。登場人物たちの一挙手一投足、一切の無駄がない会話劇。作画が素晴らしいからこそ「視線で語らせる」という高度な技も可能となる。最近ではアニメでやる意味が果たしてあるのだろうか、という類の作品が増えてきた。そんな中、魔法も超能力もドラゴンも、非現実的なものは何ひとつ出てこない、おれたちの居る現実と地続きの世界でありながら「アニメーションでなければ成立せず、且つ誰もが共感できる普遍的な作品」が生まれてきたこと、しかもそれを生み出したのが常にアニメ業界の最前線を走っていながら近年は実験的な作品に手を広げていた京都アニメーションだった、という事実に感動を禁じ得ない。試行錯誤を重ね、紆余曲折を経て京アニが辿り着いたのは、万人に愛されるポテンシャルを有した眩しいくらいの青春の1ページだったというのは些か出来過ぎだ。そしてコンクール優勝、全国行きの切符を手にしたところで終了というアニメ本編の幕引きがその1ページを永遠のものと錯覚させる。久美子や麗奈が青春という刹那的な夢から覚めてしまう前に物語が終わるのは果たして救いなのかどうか、そんなことを考えているうちにエンドロールが終わり、現実に引き戻されてしまったのだった。
トリアージX
ストーリー 5
キャラクター 8
演出 9
作画 6
音楽 8
総合得点 36点
総合評価 B
この世に人間が存在する限り、善も悪も各々の定義のまま存在し続けるし、戦争を止めて世界を(一瞬でも)平和にしたければ逆説的に王者を盲信しない人間を全て滅ぼせばいい。人間はひとりひとり違うからこそ分かり合えないし、分かり合えないから今もこうして長々と生き永らえているのだ。これは人間に限った話ではなく、例えばおれが今日殺した虫にも親や子がいて、連綿と続く生命の流れをおれが断ち切ってしまったのだな、と考えると途端に生きづらくなる。思考停止は身を守る有効な術だ。なんのために社会の歯車になって労働するのか、考えないようにしなければきっと生きていけない。
どんなに労働は悪、社会は悪だと思っていても、必殺仕事人は社会や世相の前におれを斬るだろうし、結局正義とはそれを定義・執行する人間の自己満足に過ぎないのだ。しかしこの『トリアージX』はある特定の人間の意思によって善悪が定義され、悪として選択(トリアージ)された者たちを容赦なく葬る「ブラックラベル」という組織が存在する。主人公の三神嵐はこの組織の一員であり、話が進むにつれて対立する巨悪の存在が明らかになってくるわけだが、こんな設定はどうだっていい。1話時点で既に薄々感づいてはいたが、この『トリアージX』という作品にとって設定など有って無いようなものだ。間違いなく『聖痕のクェイサー』『魔乳秘剣帖』、前期だと『新妹魔王』あたりの作品の系譜を継いでいるのだが、トリアージXはそれらの作品とは違い、やや硬派でハードボイルド的な渋みを感じさせる。
しかし幾分か硬派であるからこそ、時折顔を出すシュールな笑いが効いてくる。最終回、最後の最後でヒロインがバイクで帰るのに対して主人公は高速道路から徒歩で帰宅という、謎すぎる絵面にも笑わせられたし、何よりそこまでトリアージ(選択)していない。殺すべきやつは即効で殺すし、生かすやつは最初からどうにかして救おうとしている。まるで視聴者にこのアニメを見るかどうかというトリアージを迫っているかのような、衝動に身を任せた物語は、ともすれば「雑」の一言で片付けられてしまいそうだが、ここから滲み出てくる味の癖の強さこそがこの作品の長所なので、やはり受け入れ難い人は一定数いるのだろう。
刹那のスピード感、即効性の強い物語、エロスとタナトス。面白いとか面白くないとか、そういった主観的評価の枠外に居ようと常に苦心している様子が伝わってくる。まあ面白いか面白くないかと問われれば面白くないのだけど、好きか嫌いかと問われれば好きだし、こういうアニメがある種の特効薬として作用しているうちはまだ日本は平和だといえる。全10話という明らかな尺の不足や安定しない作画などの足枷はあったが、無理矢理力業でねじ伏せたという感じで、最後まで敢えて知性を抑え込むプロ根性に感心したのであった。
放課後のプレアデス
ストーリー 4
キャラクター 6
演出 7
作画 7
音楽 5
総合得点 29点
総合評価 D
『立体で見る星の本』という3Dメガネで見る本を20年ほど前に叔父から貰った。それが星に対して興味を抱くきっかけだったように思う。おれが子供の頃に住んでいた場所はクソがつくほどの田舎で、夜も9時になると家々の電気は消えて(老人ばかりが暮らしている)、晴れた日の空には肉眼でもその綺麗さが分かるくらいに星々が瞬いていた。それを見て「何だかよくわからんが凄い」とぼんやり考えていた。星には広大無辺のロマンが詰め込めれている。とある展望台で一度だけ流星群を見たことがあるのだが、あれは中々に凄いものだった。宇宙の岩や塵が光っているとか、そういう理屈を超えたところにある魔法みたいな非現実的な感覚を抱かせる。
大人になって都会(と言っていいだろう)に住んでいる今となっては、夜空を見上げること自体ほとんどなくなってしまったが、日課の30分ジョギングをしている時、ふっと空を見上げると小さい星がいくつか光っていたりして、子供の頃に見たときはもっと綺麗に見えていたよな…と思い出してはつらくなるのである。汚れちまったのは地球の方なのかおれのほうなのかは定かではないが、少なくとも望遠鏡を買ってあの頃見た星たちに再び会おうとする気力がないくらいには精も魂も尽き果ててしまった。いつかおれもあの星の一部になってしまうのだろう。
2015年4月から放送が始まった『放課後のプレアデス』は4年前にYouTubeで配信されたWebアニメが母体になっている。というかストーリー自体はWebアニメから大きく変わってはいない。骨組みだけ見せていたWebアニメにキャラの掘り下げなどの肉付けを施したのがテレビアニメ版というわけだ。それだけなら今風のコンテンツ展開という感じだが、ここにスバルという自動車ブランドが組み合わさると話は変わってくる。根元からがっつりスバルが絡んでいるためか、とにかく物語が綺麗すぎる。引っ掛かる要素がないので右から左へただ流れていってしまう。もっと毒素がほしかった。ほんのひとつまみの塩が甘さを引き立てるのに役立つように、ほんのひとつまみの毒があってこそこの物語の甘さがもっと引き出せたはずなのだ。
あと、人間関係が分かりやすいのに物語の見通しが悪いのが気になった。分かりにくいとかそういうことではない。単純にスッと頭に入って来づらく、アニメとおれたち視聴者との間に一枚の壁があるような、そんな悲しげな隔たりを感じてしまうのだ。すばるやあおいたちが一喜一憂する様子を見ても、どうにもその様子に共感することも、反感を抱くこともできない。ただただ幽霊のようにじっと見つめているだけだ。Webアニメで成仏できなかったおれのような幽霊は結局テレビアニメでも救われなかった。すばるやあおいたちが使っていた魔法の杖から発せられるエンジン音を聞きながら、やはり表立ったアニメと企業の連携は上手くいかないのだよなと思いを新たにするのであった。
えとたま
ストーリー 9
キャラクター 10
演出 9
作画 9
音楽 7
総合得点 44点
総合評価 A
何も見ないで十二支を全部言える、というのは教養というより日本人なら当たり前のことだろうとずっと思っていた。しかしいつだったか、辰あるいは巳までしか言えない人間がいる、それも少数ではなく結構な数がいるという事実に直面してしまい困惑を禁じ得なかった。あと旧暦月名も知っているのが当たり前だと思っていた。おれにとってそれらの知識は歯を磨いたり靴紐を結んだりする日常的な行為の一種として処理されていた。まあしかし十二支の面々についてはおれも子供の頃から疑問に思っていて、辰、つまり龍だけは現実にいないじゃん、それなら現実に存在する他の動物を入れてやったらいいのでは…と考えていた。なのでアニメ『えとたま』において主人公のにゃーたんが「何とかして十二支に入りたい」と訴えていたのには共感できた。この時点でおれは『えとたま』という作品に取り込まれていたのかもしれない。
「人間は考える葦である」とはパスカルの名言だ。「生きるために食べよ、食べるために生きるな」とはソクラテスの名言だ。「たかだか3話程度でアニメを判断するな、最後まで見て判断しろ」というのは誰の名言だったか、もう忘れてしまったが、とにかくこの『えとたま』は3話以降(個人的には5話から)が本番と言っていいアニメだった。質の高い長尺のコントを見ているような感覚に近い。序盤はあくまで己の世界観を視聴者に理解させ没入してもらうように緩やかに話を展開し、視聴者が嵌ってきたところでアクセルを踏み一気に加速する。これだけだとまだ前例のある有りがちなアニメで終わるところだったが、『えとたま』が凄いのは、序盤でしっかりと構築したその世界すらぶち壊してしまうような話を後半で次々と繰り出してくるところだ。
「にゃーたんが十二支の一員になるために現在の十二支の面子全員を倒すと決め、人間のタケルの家に居候しつつ彼が宿す大量のソルラルを借りて闘う」という最低限の骨組みだけを残したまま、他の要素を全て毎回バラバラに解体してその都度自由に組み立てるという奔放ぶりを序盤を過ぎたあたりから見せ始め、中盤以降は完全にやりたい放題だった。チューたんとの因縁という最終回のための要素を小出しにしつつ、他の十二支のメンバーと様々な方法で対決していく。闘いに負けて死んだと思ったウリたんがその次の回で何事もなかったかのように生き返ったり、闘うのが面倒臭くなったにゃーたんがイヌたんキーたんを買収しようとしたり、もうルール無用やりたい放題なのに、なぜか物語は破綻しない。それは前述のように毎回最低限の骨組みだけは守っているからだ。この手法は初期の『ミルキィホームズ』に近い。
そんな暴走ぶりが目立つ中盤以降でも、とりわけ面白かったのがピヨたんメイン回の第玖話「花鳥歩月」だ。ソルラルシールを掛けて闘うその種目が「将棋」というだけでも異常だが、生半可なものではなく、某将棋協会が協力・監修した本格的な将棋での闘いを繰り広げている。にゃーたんが将棋のいろはを会得してどんどん強くなっていくにつれ人格も変わっていくのは面白かったし、やっている修行の半分以上が将棋一切関係ないのもこのアニメらしくて良かった。この回は繰り返し視聴して実際に自分の持ってる将棋盤で対局を再現してみたりなどした(生前の祖父から貰った将棋盤がこんなところで役に立った。運命を感じる)。あと手描きパートとCGパートの使い分けが上手い。今期の『SHOW BY ROCK』とかもそう。『アイカツ』以降、確実にCGパートの表現が進化している。
1〜2話のノリははっきり言って空回り気味だったが、世界観構築という点では成功していたし、それを崩しにかかる&キャラ掘り下げの3〜10話はどれも全く違った面白さがあってその全てが上手くハマっていた。11話から12(最終)話の「本気で盛り上げにかかっているのか何だかんだで笑わせようとしているのか分からない」といった混沌とした空気も悪くない。結果的におれはこのアニメにすっかりハマってしまった。『ハロー!! きんいろモザイク』を除けば「今期最も続編を見たいアニメ」はこれだったりする。メイたんに養われたいだけの人生だった。
パンチライン
ストーリー 1
キャラクター 1
演出 1
作画 8
音楽 4
総合得点 15点
総合評価 Z
「嫌い」と「苦手」は違う。違うが、個人の主観による評価だという点では同じだ。インターネットの発達によりTwitterやブログで様々な人間が創作作品の評価を発表するようになったが、その9割は主観によるものだ。そもそも一般人が創作作品を客観視して評価するのは非常に難しい。おれだって主観丸出しの人間だ。極力主観のみに偏ることを避けてはいるが、無意識のうちに主観の塊で評価を下してしまうことがある。しかしそれは決して悪いことではないだろう。主観でしか評価できない人間が大勢いることによって、客観視して評価できるプロのライターの需要があるのだ。もちろんプロも一般人も、他者から常に突っ込まれることは覚悟しておかなければならない。しかし「これを好き」「これを嫌い」という原初の感情だけは何があっても否定されるべきではない。それを否定するということは人間の存在を否定するということだ。おれは他者の好き嫌いを否定しない(肯定もしない場合もあるが)。そして同様におれの好き嫌いは誰からも否定させない。おれの好き嫌いはおれの生きている証だ。
話は変わって2015年春。全てにおいて駄目なアニメに出会ってしまった。ノイタミナ史上最低の作品は『ギルティクラウン』で、いくらなんでもこれを超える駄作はもう現れないだろう、と思っていたがそれは残念ながら突如として現れてしまった。『パンチライン』。駄目な部分を挙げたら本当にキリがない。継ぎ接ぎしたような雑すぎる設定、タイトルにしたにも関わらず全く活かせていないパンチラ要素、「6話からが本番」と公式で言っておきながらただ伏線を回収するだけでつまらなかった6話以降。噛み合っていないちぐはぐなキャラクタ、寒すぎて凍死するレベルのギャグ要素、有りがちなタイムリープ、目に悪い色彩設計、小室哲哉の無駄遣い……よくもまあこれほど駄目な要素を揃えられたな、と逆に感心すらしてしまう。
唯一良かったのは作画だ。本当にやめてほしいのだけど、去年あたりから「作画だけはいい」「音楽だけはいい」みたいなアニメが増えてきている。ストーリーが1点でも作画や音楽が8〜9点なので結果的に合計点・平均点が底上げされる、みたいなの本当に腹が立つ。良いアニメはストーリーもキャラクタも演出も作画も音楽も良い。それは歴史が証明している。五角形のどれか一つだけ突出していても歴史に名は残せない。あっという間に押し寄せるアニメたちの波に飲み込まれ、消えていってしまう。おれは歴史に名を刻むであろう名作とリアルタイムで出会いたいのだ。頼むノイタミナ、雰囲気ものを追求しないで本気で天下取りに来てくれ。
浦和の調ちゃん
ストーリー 5
キャラクター 8
演出 6
作画 7
音楽 6
総合得点 32点
総合評価 C
うー!うー!うっううらうら!!
ニセコイ:
ストーリー 7
キャラクター 7
演出 9
作画 8
音楽 7
総合得点 38点
総合評価 B
恋愛ものの作品を長く続けようとするのは本当に難しい。特に学生の恋愛というのは尋常じゃなく難しい。それは歴史が証明している。恋愛ものの名作と評されるもののほとんどはゴールに向かって不必要な寄り道をすることなく真っ直ぐ歩いていく。では作品を長く続けようとした場合、どうすればゴールに向かう直線道路に継ぎ足していった回り道が「不必要な寄り道」だと受け手に認識されないようになるのか。少女漫画なんかは昔から、主人公の恋敵を増やしたり、主人公に近寄ってくる男を出したり、あくまで恋愛に直接結び付いた手法を採ることが多いが、男性向けのラブコメ作品なんかは単純に、主人公に惚れる登場人物を増やしていくという力技で攻めることが多い。『インフィニット・ストラトス』などはまさにそれだ。
そして『ニセコイ』もまた、そうした登場人物を増やしていくラブコメ作品の典型例だ。とにかく新しく出てくる登場人物が次から次へと主人公の一条楽に惚れていく(出てきた時点で惚れている場合すらある)。こういう光景を見ていると、昨年のアニメ『ガールフレンド(仮)』で抱いたベルトコンベアのイメージがここでも湧き起こってくる。最初は魅力的だったキャラクタも、時間が経つにつれただの当て馬になったりそこらへんのヒロインと大差ない無個性キャラになったりするのがつらかった。途中からあらゆる属性のヒロインを網羅しようと企んでいる節さえ見受けられた。問題はそうしたありとあらゆるヒロイン候補みんなが惚れてしまうほどの魅力を一条楽に見出せない、という点にある。
超人的な事務能力や料理などの家事スキルを身に付けていて、鈍感なくせに他人の変化にはわりと敏感という、昨今のラブコメ主人公にありがちな個性を取り揃えているがこれといった新鮮さはなく(ヤクザの組長の息子という設定だけは良かった)、メインヒロインの千棘や小咲も初期の頃と比べ明らかに個性が薄くなっている。逆に鶫や万里花のほうが個性が立ってきている。加えて新キャラの春の活躍がとにかく目立ち、そのぶん春に近い性格の千棘が割りを食っていたのはちょっと勿体無かった。で、ここまでだったらこの『ニセコイ』2期は「そこまで良くなかったなー」という雑な感想で終わっていただろう。ところが、後半になって突如神懸かったクオリティの回が現れたのである。それが第10話「オウエン」だ。
この回のために今までの『ニセコイ』があったと言ってもいい。はっきり言って1期含め今までのエピソードの中では断トツで一番良かった。というか今までのエピソードとはまるで比べ物にならないほどの圧倒的な完成度だった。音数を最小限に絞る・常に暗雲が立ち込めている・そもそも一条楽が主役ではない、というイレギュラーなエピソード。ここでの主人公は楽の悪友の舞子集だったが、この集が普段自分の好き嫌いといった感情をあまり表に出さないからこそこのエピソードは成立した。集が思いを寄せていたキョーコ先生に雨の中で告白するシーン、集の言葉が全て雨音でかき消されてしまうのに対し、キョーコ先生の「なんだ、ちゃんと青春してるじゃないか」という言葉は鮮明に聞こえてくる、この演出が最高としか言いようがなかった。キョーコ先生が寿退職すると知ってからの集の微妙な変化もよく描けていたし、楽が集の背中を押すシーンや、学校の廊下で集とるりがすれ違うシーンも素晴らしかった。良いところを挙げればキリがない。
というわけで『ニセコイ』2期、この10話の存在により評価が1.5倍近く上がっている。普段能天気なラブコメを繰り広げているニセコイだからこそ成し得たギャップの表現。もたもたしていると何もないまま恋が終わってしまうぞというさり気ない警告は、物語を停滞させないという作者の意思も感じられる。そもそも10話にはコメディの要素はほとんどなかった。誰もが己の感情や勝手に過ぎ去っていく時間、生まれた瞬間から存在する時間の格差といった問題に直面している。今までの飄々とした自分を捨てて走り出した舞子集の姿には心動かされてしまった。これだけのものを見せられたら、原作『ニセコイ』のゴール地点もこれだけ素晴らしかったらいいな、と今から願ってしまうのも仕方ないだろう。
シドニアの騎士 第九惑星戦役
ストーリー 9
キャラクター 10
演出 9
作画 7(?)
音楽 7
総合得点 42点
総合評価 A
静野孔文という監督に関しておれは全く良い印象を持っていなかった。なぜならば劇場版『名探偵コナン』はこの監督が担当して以降、地に落ちてしまったからである。ミステリとしての完成度よりも、アクションの派手さを追求し始め、結果的に観客動員数は右肩上がりに増え続けたが、コナンのミステリ要素を欲するおれのような人間の心は右肩下がりに沈んでいった。まあ確かに「高校生が薬を飲んで身体が縮んでしまう」という時点で現実離れしているが、だからといって映画で「じゃあ現実離れしたアクションいっぱいコナンにやらせるぜ!!!」というスタンスで良いわけがない。いや、確かに映画4作目『瞳の中の暗殺者』あたりから「あれ、ちょっとアクション過剰じゃないか…?」という気はしていた。そしてそれらの問題を全ていっぺんに解決してみせた6作目『ベイカー街の亡霊』はやはり問答無用の大傑作だ。
こだま・山本両監督の時の作品と静野監督作品が明らかに違うのは「アクションの取り入れ方」だった。要はそのアクションが本筋に必要あるかどうか、という点だ。そしてアクションの減り張り。特にこだま監督作は大袈裟に見せる部分と小さく纏める部分が両立していたからこそ、どの作品も未だに傑作として君臨している。しかし静野作は常にアクセル全開、アクションはいつだって派手だ。最近のジャンプ連載漫画ですらやらないような派手なアクションはなるほど、確かに子供達にはウケが良いだろう。格好良い見せ場が多いということでF1層も掴めそうだ。結果的に興行収入は良好なのだから、静野孔文はコナン映画を救ったということになる。確かに映画の興行収入が悪化して打ち切りになるよりはよっぽどいい。その点については感謝している。しかし、それでも、青山剛昌の原点であるミステリの細やかな要素がほとんど剥ぎ取られている最近の映画はどうしても好きになれないのだ。
そんな静野孔文が監督を務めた初の深夜アニメ『シドニアの騎士』は、彼が持ち得る3DCGの知識を総動員し、尚且つ溜まりに溜まっていたであろうアクションの見せ方をこれでもかと取り入れた極上のSF作品に仕上がっており、それまでの静野孔文に抱いていた印象を一変させるには充分すぎる作品だった。オール3DCGでありながら手描きのアニメにも負けない魅力があり、加えて3DCGでしか表現できない部分まで見せてくれた。停滞したアニメ業界に投げ込まれた革新的な作品として名高い1期の流れを汲んでこの2期も当然静野孔文が監督を続投するものかと思っていたが、そうではなかった。静野孔文は企画協力という役職に就き、代わりに1期で副監督を務めていた瀬下寛之が監督になった。監督が変わったことによる不安は大きかったが、蓋を開けると1期の流れをしっかりと汲みつつ、原作に手を加えながらも後半のメイン要素であるラブコメもしっかり3DCGの中で成立させた良作に仕上がっていた。
3DCG最大の問題は人間の動きや表情の変化だ。手描きと比べて明らかな違和感が生じてしまうのはもう仕方ないことなのだが、この作品はメインヒロインが地球外生命体なので3DCGのぬるぬるとした質感が非常にマッチしていた。正直ここまで白羽衣つむぎの魅力が引き出せるとは思っていなかった。凡百の作品なら白羽衣つむぎというキャラクタはその魅力を全く発揮できず気持ち悪さだけが印象に残ってしまうような、とにかく扱いの難しい存在だ。それをコミカルな動きや洲崎綾のイノセントな演技によって上手くメインヒロインの座まで持ち上げている。原作の時点でもうだいぶ正妻ヒロインオーラを漂わせているキャラだったのだが、アニメになるとより一層そのオーラが際立つ。1期シドニアのようなわりとハードなSFを期待していた人にはやや物足りなく感じたかもしれないが、原作を読んでいてラブコメにも耐性があり、かつ白羽衣つむぎの魅力を骨の髄まで感じ取れた人間にとってこの2期は1期に比肩するくらい満足のいくものだったのではないだろうか。
山田くんと7人の魔女
ストーリー 9
キャラクター 9
演出 9
作画 7
音楽 9
総合得点 43点
総合評価 A
人気のある漫画や小説がアニメ化された場合、ドラマと比べて「原作の方が良かった」と批判される確率が高い。映画(特に実写映画)は最近だとハナから「どうせ原作は越えられない」どころか「駄作に決まっている」と企画段階で皆諦めているが、アニメにはまだ希望の光が差している。直接的な視覚的情報量が多い漫画は小説に比べてアニメ化しやすいというのはもちろんだが、それ以上に文字媒体の小説と比べ漫画は読者の想像力をある枠内の中に固定するため、良い意味で想像の範疇を超えない、つまりは予想を裏切らないという要因が大きい。バトル漫画とかだと作画の力がものを言うが、日常系やラブコメ系だとわりと作画に注目されないので(しかし近年はこの傾向が崩れてきており、緩やかではあるが作オタが増えてきたのではと思っている、とりあえずみんな電脳コイルのビジュアルコレクションを買うといい)、役者の適性とか音楽とかに重きが置かれている感じが。
で、当然ながら漫画であっても原作既読者と原作未読者の間では大なり小なりアニメから受ける印象が違う。この『山田くんと7人の魔女』もそうだ。このアニメ、なんと1クール全13話という放送枠にもかかわらず、原作漫画1巻から11巻までの内容を全部詰め込むという離れ業を成し遂げてしまった。原作未読の人ですら「このアニメは進むペース早いなー」と思っていたことであろう。おれたち原作既読者は「これ原作の10倍くらいのスピードじゃないのか…」と思っていたのである。とにかく早い。しかしやることはしっかりやっている。つまり、作中の台詞のない部分や直接的に本筋に関わらない部分をばっさり削り圧縮しまくっているのだ。原作漫画を1.5倍速で再生しているような気分だった。だが、この大胆な手法は意外にも功を奏していた。
目まぐるしい展開でありながら、そこまで情報量は多くないので視聴者を振り落とすことはない。原作未読者を飽きさせず置いてきぼりにしない絶妙なスピードだった。原作既読であっても3話あたりからそのスピードに徐々に慣れてきて、中盤になるとこれが通常運転だと脳に刷り込まれている。もうひとつ、スピードを上げたことで失われた「キャラクタの掘り下げ」だが、原作における山田は結構不快感のあるキャラクタなので、この掘り下げが失われたことによって却って山田の不快感が表出せず、結果的にプラスに作用していた。が、しかし、伊藤雅の魅力をほとんど描けていなかったのは勿体無かった。確かにメインヒロインは白石うららである。しかしこの作品に伊藤雅は絶対に無くてはならない人物だ。それをアニメで示せていなかったのが残念でならない。
11巻まで半ば強引だがアニメ化したことでキリ良く幕引きできたし、削られた部分が多かったのと物語自体の強度を示せていたので上手く原作の販促としても機能していたのではないだろうか。実際、原作も11巻までは山田の性格やこじつけ感のあるいくつかの設定を無視すればかなり面白い。12巻以降は残念ながら急降下してしまうので(男が魔女の能力を使えるという超絶後出し設定にはさすがに引いてしまった)、鮮度が命のアニメは上手いこと勝ち逃げしたな、という感じだ。アニメにおいて「時間を有効に使う」と言われれば「敢えて長い間をとって言葉ではなく絵で伝えたいことを表現する」というやり方を想像してしまいがちだが、「どこまでアニメ化したら一番面白くなるかを考え、そこをゴールに決めてひたすら全速力で走る」というやり方だって立派な戦略だ。『山田くんと7人の魔女』はそのおかげで良作たり得た。これを機に是非とも『ヤンキー君とメガネちゃん』もアニメ化してほしい。
グリザイアの楽園
ストーリー 10
キャラクター 9
演出 10
作画 8
音楽 9
総合得点 46点
総合評価 S
ギャルゲ・エロゲ原作アニメというのは基本的に「恋愛」要素さえ入っていれば何をやってもいい、というカオスな領域で、王道傑作ラブコメ『ましろ色シンフォニー』から、あまりの際どさに賛否両論巻き起こった『ヨスガノソラ』や、もはや伝説になった『School Days』、最近だとタイムリープものの『失われた未来を求めて』や、最終的に熱血ギャグアニメになってしまった『ワルキューレロマンツェ』など、本当に多種多様なものが揃っている。ある意味ラノベ原作アニメ以上に幅が広く、そして実験的だ。しかしギャルゲ・エロゲ界隈の規模が縮小していくのに伴って、ギャルゲ・エロゲ原作アニメの数も減っていった。一時期は1年に12〜13本放送されていたが、2014年には4作にまで減ってしまった。
そんな中で満を持して投下されたアニメ『グリザイア』シリーズ。2014年末に『グリザイアの果実』が放送されたのを皮切りに、今年4月に『グリザイアの迷宮』『グリザイアの楽園』が放送された。正直なところ、『グリザイアの果実』だけを見た段階では「エグいなー」くらいの感想に留まっていた。周防天音の壮絶な過去は瞬きを忘れてしまうほどのものだったが、そこで終わってしまったので「エロゲ原作アニメにしてはかなり異色だ」という認識止まりだったのだ。しかし、2015年4月に放送された1時間アニメ『グリザイアの迷宮』を見て、あの周防天音の壮絶な過去ですらまだこのシリーズのほんの序の口であったことに気付かされた。
『グリザイアの迷宮』については初回雑感である程度述べたが、もう見渡す限り闇に覆われていて、最後の最後でようやく希望の光が差し込むという今時あり得ないくらいのノワールぶりを見せつけていた。周防天音の過去における剥き出しのサバイバル感に通じる闇とは全く別物の、全く底の知れない闇だった。ここ10年くらいで「シリアス」という言葉がアニメのシナリオに対して用いられることが多くなったが、そんな生易しいものではない。シリアスという言葉を使ってはいられないほど、もう死が目の前に見えているほどのそれは地獄といったほうが相応しいだろう。
そしてシリーズを締めくくる『グリザイアの楽園』である。最後の最後で希望の光が差し込んできた『グリザイアの迷宮』の流れを汲んでいながら、派手なエンターテインメント性をこれでもかと盛り込んだ、シリーズラストに相応しいとびきりの名作に仕上がっている。そもそもこの『グリザイア』シリーズは「ハードボイルドをギャルゲに落とし込む」というテーマがあって、『グリザイアの楽園』ではそれを完璧なまでに成功させている。『きんいろモザイク』監督の天衝の手腕はまったくもって素晴らしいという他ない。タイプの違うこの2作品をどちらも傑作に仕上げるという荒業を見事なまでに成し遂げてしまった。出来過ぎなくらいのハッピーエンドもこのアニメなら許せてしまう。『迷宮』で光を知った雄二が、仲間という『果実』を手にして、光に包まれる『楽園』で幸せに暮らすという美しい構成に完全にやられてしまった。
ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース エジプト編
ストーリー 9
キャラクター 10
演出 9
作画 9
音楽 5
総合得点 42点
総合評価 A
名作と呼ばれ長く語り継がれるものにはしっかりとした理由がある。だがしかし、長らく語り継がれることで勝手にハードルが上がってしまうという難点もある。実際に見てみた/聴いてみた/読んでみた けど大したことなかったよ、と言われてしまうのだ。だから名作は人に勧めるのが難しい。おれも実際に過去の名作(特に音楽)に触れたけど全然大したことなかった、という体験を何度もしている。Wilco『Yankee Hotel Foxtrot』や、最近だとカニエの『My Beautiful Dark Twisted Fantasy
』も残念ながらその良さ・素晴らしさが分からなかった。もっとも、その良さが理解できない自分にも非はあるだろうが、そもそも人間の好みというものはバラバラなのが当たり前なので、たとえ多くの人間が賛美しているものであれ自分にはハマらない、ということは起こって当然なのだが。
しかしこの世の中には稀に「どれだけハードルを上げようとそれを乗り越えてくる」という怪物じみた作品が存在する。『ジョジョの奇妙な冒険シリーズ』はまさしくそれだ。性別や国籍や世代を超えて愛される、アーティスティックでありながら普遍的なポップネスを兼ね備えている究極のエンターテインメント。洒落ているのに人間臭く、喜劇的な台詞回しもなぜか絵的に最高に映えるというこの恐ろしい完成度の作品は、数多くのフォロワーを全く寄せ付けなかった。アニメは1部の頃から常に原作に寄り添う姿勢を崩さなかったが、そもそも原作漫画の時点でもう付け入る隙がほとんど見当たらない完成度なので、金さえ惜しまず最高の作画と最高のキャストを用意できれば傑作への道は保障される。
作画は言うまでもなく、キャストはとにかく常にテンションを高く維持しており、その毎度の熱量の高さには時に笑わされ、時に激しく感情を揺さぶられる。オーバーリアクションがギャグにも純粋なバトルにも効果的に作用しており、それでいてクドさを感じさせない。絶妙な塩加減である。そしてこの3部が他部と明らかに違うのは、旅の終わり、すなわち承太郎がDIOを倒して全てを終わらせ、空港でポルナレフと別れるシーンで「楽しい旅だった」と皆が振り返っている点だ。これまでの"奇妙な冒険"では楽しいこと以上に辛く苦しいことが多く、それが思い出自体をマイナスに印象付けていたが、この3部における旅はホリィ救出という切迫した背景があったものの、出会いと別れを繰り返した5人+1匹がわいわい騒ぎながらDIO討伐を目指すという、本当の意味での冒険っぽさがあり、見てるこっちも楽しめるものだった。やはり旅は楽しくないといけない。
暗殺教室
ストーリー 8
キャラクター 8
演出 7
作画 8
音楽 4
総合得点 35点
総合評価 B
食わず嫌いというものを経験した人間はわりと多いのではないだろうか。おれはオクラがそれだった。切ったときのあの異常な形や謎の粘っこさ、それだけでこれは食えねえなと思って高校生の頃まで敬遠していたが、いざ食ってみると何のことなく食べられた。今では梅干しと和えたり、納豆と混ぜて食ったりしている。逆に、食えそうだと思っていたものが、いざ食ってみるとああこれは駄目だ…となったこともある。ズッキーニや南瓜がそれに該当する。20年かけてようやくおれは瓜科の食物が無理なのだな、という答えを得られたのだった。
テレビアニメ放送前、漫画『暗殺教室』は1巻しか読んでいなかったが、その1巻の時点で「これは無理なやつだ」と思い込み敬遠していたのだけど、アニメを見ているうちに「意外といけるのでは…???」と思い始め、気付いたら最終回まで見ていたという寸法だ。これは「学園もの」というより「教師もの」で、日本ではアニメ・ドラマ問わず、様々な教師ものが生まれて人気を博している。『金八先生』『GTO』『ごくせん』など。それらの名作と比べると、この『暗殺教室』はファンタジー色が強く、そのうえ「生徒たちが教師を殺すのが最終目標」という時点で今までの教師ものとは一線を画すのだが、その表層を剥ぎ取ってしまえば中身は今までの教師ものの内容となんら変わらないという点が、『暗殺教室』という作品をおれが敬遠し続けた理由だ。
しかしいざ本腰入れて見てみると、「暗殺」という軸を使ってあらゆるイベントを王道から僅かに逸らすテクニックを発揮しており、単純な二番煎じとは訳が違うのだとようやく理解できた。「暗殺」というものそれ自体がそこまで重く捉えられていないというギャグっぽさも相俟って、中々楽に見られる。おまけに最終回のような戦闘シーンまで盛り込まれている。学園ものでありながら真の主役は潮田渚だった、というラストも良かった。というかこのアニメは終盤が非常に良かった。期末テストのエピソードも捻っていて面白かったが、個人的にはやはりチートである先生が封じられてからのほうが格段に面白かった。
教師ものなのに教師が実質的に不在の時の方が面白いというのはどうなんだ…と思ったが、先生があまりに強すぎるせいで今まで何が起きても緊張感が無かった、というのが問題だったので、そのへんをすっぱり解決してくれた終盤の展開にはやはり素直に唸らされるのである。しかしもうおおよそのイベントをやり尽くしてしまったような気がするんだけど、原作はこのあと中弛みしたりしないのだろうか。
ハロー!!きんいろモザイク
ストーリー 10
キャラクター 10
演出 10
作画 10
音楽 10
総合得点 50点
総合評価 SSS
ストーリー
1位 ハロー!!きんいろモザイク
2位 グリザイアの楽園
3位 響け!ユーフォニアム
キャラクタ
1位 ハロー!!きんいろモザイク
2位 えとたま
3位 シドニアの騎士 第九惑星戦役
演出
1位 ハロー!!きんいろモザイク
2位 グリザイアの楽園
3位 響け!ユーフォニアム
作画
1位 ハロー!!きんいろモザイク
2位 響け!ユーフォニアム
3位 Fate/stay night [Unlimited Blade Works]
音楽
1位 ハロー!!きんいろモザイク
2位 SHOW BY ROCK!!
3位 響け!ユーフォニアム
女性
1位 アリス・カータレット(ハロー!!きんいろモザイク)
2位 黄前久美子(響け!ユーフォニアム)
3位 一宮エルナ(ミカグラ学園組曲)
男性
1位 風見雄二(グリザイアの楽園)
2位 谷風長道(シドニアの騎士 第九惑星戦役)
3位 ポルナレフ(ジョジョの奇妙な冒険 スターダストクルセイダース エジプト編)
人間以外(特別枠)
1位 白羽衣つむぎ(シドニアの騎士 第九惑星戦役)
OP
ハロー!!きんいろモザイク OP『夢色パレード / Rhodanthe*』
夢色パレード Rhodanthe*(ハロー!!きんいろモザイクOP) - YouTube
ED
ハロー!!きんいろモザイク ED『Best My Friends / Rhodanthe*』
My Best Friends Rhodanthe*(ハロー!!きんいろモザイクED) - YouTube
響け!ユーフォニアム 第8話「おまつりトライアングル」
全話素晴らしいが故にどれか1つ挙げろと言われると難しいハロー!!きんいろモザイクを除いた結果これしか出てこなかった。アニメーションの未来を感じさせてくれる傑作回です。
1位 ハロー!!きんいろモザイク
2位 響け!ユーフォニアム
3位 グリザイアの楽園
4位 Fate/stay night [Unlimited Blade Works]
5位 えとたま
言うまでもなく『ハロー!!きんいろモザイク』である。90年代はヱヴァンゲリヲン、00年代はコードギアス、そして10年代はまどか☆マギカ がそれぞれ私的50点満点を叩きだしており、満点を躊躇なく付けられる作品というのは10年に一度しか現れないだろうと今まで思っていたのだが、まどか☆マギカ放送からわずか4年後に躊躇なく満点を付けられる作品が現れてしまった。語るべきことは最終回のエントリですら半分も語れていないのだけど、全部出し尽くしてしまうとこれから先生きるのが辛くなりそうなので控えることにした。
で、まどかマギカの次に満点付けられる作品に出会えたらその時点で雑感書くの辞めようと思っていたのだけど、どうやら今年は11年以来の豊作っぽいのでとりあえず今年いっぱいアレをアレしてアレします(もっとも現段階ではアニメ視聴≦積読崩し<<<<<Apple Music という序列なので面倒臭くなったら普通に投げ出します)。来年以降は気分とスケジュールと出てくる作品次第という感じです。あと冒頭でも触れたけどマッドマックスを観ると何もかもがどうでも良くなるし何もかもが無為に思えるので皆さんマッドマックスを(できれば2回以上)観ましょう。