心が叫びたがってるんだ。

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あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(以下『あの花』)が深夜アニメとは無縁な層にまでリーチした結果、劇場版も見事に大成功を収め、ついには日曜の夜9時に実写ドラマが放送されるに至った。そして『あの花』スタッフが再び集結し生み出された映画として、オリジナルアニメーション映画としては異常なほど大々的に宣伝された『心が叫びたがってるんだ。』である。明らかに普段アニメを見ないであろう層の人間たちが多く劇場に集まっており、この時点でおれはこんな場所にいていいのか、やっぱり友人を伴って観に来ればよかったなどと後悔しているうちに、場内のランプが消えてスクリーンに映像が映し出された(ちなみに後ろの大学生2人が乃木坂ファンだったらしく映画が始まるまで『心が〜』については一言も触れずひたすら乃木坂の話をしていたのが面白かった)。余談だが有難いことにおれの座席周辺にはポップコーンを貪り喰らうモンスターや、鼾・雑談・咳払い・貧乏揺すりなどの音で攻撃してくるタイプの人間はいなかった。少しのことで気が散ってしまうミスター神経質ことおれとしては非常に有難かった。


上述したように、『心が叫びたがってるんだ。』はあの花のメインスタッフである長井龍雪岡田麿里田中将賀が再び集結して作られたオリジナル長編アニメーション映画だ。それゆえに上映前から人々の期待値はかなり高かった。おれはあの花は1話が最高だと思っているタイプの人間なので、序盤に全神経を集中させて観賞しようと臨んだわけだが、それは正解でもあり不正解でもあった。結果的に、『心が叫びたがってるんだ。』は『あの花』が苦手だったおれのモヤモヤを吹っ飛ばすような傑作だった。その後『マッドマックス』同様に3回も観賞してしまった(レイトショーの観客も明らかに層が違っていた)。


以下9割ネタバレです.



まずはストーリーについて気になった点を大雑把に。主人公の成瀬順が小学生の頃から物語は始まるのだが、いきなり父親の不倫現場を目撃してしまう。町の山の上にあるラブホテルから父親と不倫相手の女が車で出てくるところを目撃するが、まだ小学生だった順はそれが何を意味するのか理解できず、そのことを「父親が王子様に見えた」エピソードとして母親に饒舌に話してしまう。これにより家庭は一気に崩壊してしまうのだが、小学生の主人公にラブホテルから出てくる父親を見せたり、離婚した結果家を出て行く父から主人公に「お前のせいだろう」と言わせたり、冒頭からもう岡田麿里の悪趣味がこれでもかと迸っている。昨今、最初から様々なトラウマを抱えた主人公が出てくる作品が溢れているが(特にファンタジーに属する作品)、この作品は主人公自身が何の悪意もなく、平和的だった家庭をある日突然崩壊させてしまう引き金を引いたという点でかなりエグい。


そこから物語の最後まで尾を引く「玉子の呪い」が順にかけられる。これはもちろん魔法でも何でもなく順自身が重すぎる責任を肩代わりさせるためのいわば言い訳に近い存在だったが、小学生の順はそのことに自覚がなかった。かくして順は喋ることを禁じられ、高校生の現在に至るまでひたすらに口を噤んできた。吃音症とも違う、純粋に「魔法をかけられて喋れなくなった(喋ると腹痛に襲われる」と信じ込んだ順の様子を見て、この映画のタイトル『心が叫びたがってるんだ。』の意味やこれからの展開がここでわりと容易に想像できてしまうのだが、それはシンプルなプロットなので仕方ないといえば仕方ない。


時は進み、もう一人の主人公である坂上拓実が出てきて物語はようやくスタート地点に立つ。高校で行われる「地域ふれあい交流会」の実行委員が担任の城嶋によって無作為に(明らかに意図的な狙いを感じるがそこのところは作中で明かされてはいない)選ばれた。成瀬順、坂上拓実、仁藤菜月、田崎大樹の4人である。この4人はキービジュアルに描かれているため、ああこいつらがそうなのか、と自己・他己紹介が無くてもスッと頭に入ってくる。まあ27人学級だしその他の登場人物も限られてくるし、ストーリー同様に人物相関も至ってシンプルなので混乱することもない。そこからは拓実が中心となって物語が転がってゆく。


城嶋が提案したミュージカルに順が惹かれ、ここから4人とクラスメートが団結してミュージカル上演に向けて進んでいくのだが、その中でも印象的なのがミュージカルを初めて提案した際、大樹の友人の三島と拓実が掴み合いの喧嘩をするシークエンスで、これは教室の構図や掴み合いまでの両者の動きなどが完全にあの『とらドラ!』における例の喧嘩シーンを意識していて(『とらドラ!』と構図とかが同じわけではないが、明らかに『とらドラ!』の例のシーンを念頭に置いて作られている)、観ていて思わず「とらドラじゃん!!!!!!」と言いそうになってしまった。女性を男性に変え、両者の動きを遅くした『とらドラ!』だ。笑ってしまうくらい『とらドラ!』を髣髴とさせるシークエンスだったので、他の観客も笑ってるんじゃないかと思ったが笑い声は聞こえてこなかった。というかそもそも凄く険悪でシリアスなムードの場面なのでニヤニヤしているおれがおかしいだけだった。みんな『とらドラ!』を見てからここさけを観劇に来てほしい。


ここからはもう文化祭ムード。「地域ふれあい交流会」なんて曖昧なイベントでぼかしてはいるが、要は岡田麿里は文化祭をやりたかったのだ。しかし文化祭にミュージカルという演目はそぐわない。だが同時に学校行事でなければやる気のない生徒たちに強制できない。だから「地域ふれあい交流会」なのだ。この点上手く誂えたなーという狡さが垣間見えてしまうのだけど、それが決して嫌なものではなく、むしろ清々しく見えてしまうあたりに長井龍雪、そしてキャラデザの田中将賀の手腕を感じられる。岡田麿里単体だとドロドロのグズグズになってしまう物語が、長井龍雪田中将賀というフィルターを通すだけでこんなにも綺麗になるという事実は21世紀最大の発見と言ってもいいだろう。


ミュージカル上演に向けての準備が進む中で、坂上拓実と仁藤菜月の過去の関係が明らかになったり、成瀬順が少しずつ拓実以外の人間とも打ち解けられるようになる(携帯メールでのコミュニケーションという点は変わらない)。ここらへんの関係の変化をはっきりと理解したいならコミック版『心が叫びたがってるんだ。』を読めばいいだろう。過去、拓実と菜月の間に何があったか詳細に描かれている。近付いたり離れたりを繰り返す拓実と菜月たちの一方で、田崎大樹が順に謝罪してから付かず離れずの距離を保っている状況がラストへの伏線となっている。いや、正直伏線かどうかはかなり怪しいところだが、拓実の順に対する感情が常に「勇気付けられている」で貫かれていたので、この点に留意していればラストの結末は脳内で導き出せるはずだ。


そしてミュージカル上演前日の夜、拓実と菜月の言い争い(拓実の順に対する感情が俎上に載っていた)を立ち聞きしてしまった順がミュージカル本番当日に姿を消してしまう。順の言葉に対する問題が解決されないままミュージカル上演まで漕ぎ着けられるわけがないということは分かっていたので、ここで順が姿を消すことは予定調和というかまあ予想できていたのだが、隠れ場所に選んだのが山の上のラブホテルだというのは予想外だった。確かに拓実の推理した通り「全ての始まりの場所」ではある。ではあるが、順にとって山の上のラブホテルはトラウマの原点でしかないし、そもそも順は一度もラブホテルの中には入っていない。正確な始まりの場所はラブホテルの入り口付近なのだ。では、なぜ順はわざわざラブホテルの中に入ったのか。


それを考えるには、そもそもなぜ魔法をかけたのが「玉子」なのかを考える必要がある。ラブホテルから出てきた父親がまるで王子のように見えた順。だがその王子は本当の王子ではなかった。「王」と「玉」。「、」は偽物、あるいは不完全の意味か………なんて考察はどうだっていい。本来「たまご」とは何なのか、それを考えてみよう(「玉子」という食用のものを指す漢字を用いているのはミスリードの可能性が高い)。Wikipedia先生には「動物のメスが未受精の卵細胞や、受精し胚発生が進行した状態で体外へ産み出される雌性の生殖細胞と付属物の総称である」と記されている。まあこんなものは調べるまでもなく皆分かっているとは思うが。


もうお分かりだろう。『心が叫びたがってるんだ。』における「たまご」とはつまり生殖を暗示しているのである。だからラブホテルなのだ。だから順はミュージカル上演当日に「たまごの殻の中」、すなわちラブホテルの中に閉じ籠るのである。『あの花』のメインヒロインの一人に「あなる」というあだ名をつけてしまう岡田麿里が考えそうなことだ。そう、最初から深く考える必要などなかったのだ。「たまご」をそのまま「たまご」本来の意味で考えればすぐに分かることだったのだ。物語全体がキラキラとした青春でコーティングされているせいで多少分かりづらくはなっていたが。


さて、ラブホテルというたまごの中に挿入る、もとい入ってしまった拓実は、その最奥部で蹲っている順を見付け出す。「これ完全にアレですやん!!!!!」と思ってしまった諸君は心が穢れているがそれが残念ながら正解だ。現実はつらい。まさしくアレの暗示であるかのように拓実は順の心を開いていく。「玉子の呪いなんて本当はないんだ」と己の自己暗示を遂に認めながらも、そうしないとどうしようもないのだと捲し立てる順。そして初めて大声で明瞭に喋る順に拓実は「可愛い声してる」「もっと喋ってくれ」と話しかける。極め付けは「言葉は誰かを傷付ける」と泣いた順に対して言った「俺を傷付けてもいい」だ。言葉は誰かを傷付けるという順の言葉は真実であるが、同時に「言葉を使わなくても」誰かを傷つけてしまうことはある。ミュージカル上演前日の拓実と菜月もそうだし、大樹と野球部のいざこざもそうだ。思い起こせばこの映画では「言葉を発して誰かを傷付ける」ことより「言葉を発しなかったことで誰かを傷付ける」ことのほうが多かった。言葉は凶器かもしれないが、人は傷つけ合って生きていくものだと妥協しなければもっと生き辛くなる。拓実や菜月や大樹は順のように喋らないわけではなかったが、本音を言わないことで他人や自分自身を傷付けてきた。結局はみんな似た者同士だったのだということを、ここにきて拓実は理解する。


そして「わきが臭い」「嘘つき」「良い格好しい」と散々拓実を言葉で罵倒した順は、最後の最後で一番奥にあった本音、すなわち好きだというのは気持ちをこれもまた言葉で伝える。それに「ありがとう、でも俺、好きなやつがいるんだ」と答える拓実。互いが恐れていたはずの言葉での傷付け合いが行われ、ようやく同じラインに立った瞬間である。両者ともに「言葉で相手を傷付けてしまう」ということを改めて認識し、その覚悟を決めた。そして二人は皆が待つミュージカルの舞台へと戻っていく。


皆に暖かく迎え入れられた順はミュージカルの舞台で歌う。体育館の入り口から歌いながら入ってくるシーンは絵的に文句無し、この映画最大の山場と言っても言いだろう。順が喋らないことに頭を悩ませ疲弊しきっていた母親が、堂々と客席のど真ん中を歩きながら歌う娘の姿を見て驚き涙を流すシーンもまた素晴らしかった。ここからは音と映像による怒涛の波状攻撃が始まる。順が舞台に立ち、菜月と二人で少女役を演じ、クラスメートほぼ全員が舞台に集結して歌う様子は圧巻の一言に尽きる。ファンタジーものの戦闘とかでも何でもないのに、観客に瞬きや呼吸さえ忘れさせてしまうような迫力があり、気付けばあっという間にミュージカルが終わってしまっている(おれはここを見たくて3回映画館に行ったようなものだ)。


祭りの後の様子を詳細に描かない、というのもまた岡田麿里の美学の一つだろう。描かれたのは、拓実が菜月とやり直せるであろう会話、大樹が順に告白する様子だけだ。これがラストである。「大樹が順に告白する」というラストを見抜けなかった人が多いようだが、大樹が順と二人で下校しているシークエンスを見ていればこのラストは予想できたはずだ。と同時に、これはこの映画が恋愛ものではないからこそ許されたラストでもある。『あの花』と同様、目指しているのはあくまで「青春群像劇」なのだ。必ずしも「青春=恋愛」ではないのだということをこの映画は教えてくれる。あるいは青春とは己の全てを曝け出すことなのかもしれない。


あの花』に不満が残ったのに対し、この『心が叫びたがってるんだ。』は総じて目立った不満はなかった。もしかしたら岡田麿里最高傑作と言っていいかもしれない。確かに岡田麿里の持ち味のドロドロした部分は出ているが、それに慣れた監督の長井龍雪が上手くコントロールている節がある。加えてクラムボンのミトが監修した音楽も最高だった(速攻でサントラを購入してしまった)し、キャスティングも完璧だった。個人的には主役の2人、順と拓実よりも大樹と菜月のほうに惹かれてしまった。細谷佳正なんかは声は良いけどいつも同じ演技だなーと思っていたのにこの映画で一気に化けたし、わりと演技の幅は広いけどいまいちその声質が演じるキャラにマッチしていないな(別にこの人が演じる必要はないな)と思っていた雨宮天はここでついに菜月という天職ならぬ天役に巡り会えた。しかしやはり、主演の水瀬いのりの歌唱力が極めて高いという事実は記しておかなければならないだろう(シンフォギアGXの時点でその上手さの片鱗は見せていたし、今冬には歌手デビューするとのこと)。


テレビで大々的に宣伝されているような「感涙必死」といったお涙頂戴の映画ではなかったが、静かに沁み入るような感動を確かに持ち合わせている映画だった。惜しむらくは、おれが高校生の時にこの映画を見たかった、ということくらいだろうか。高校生の時に見ていたら感銘を受けて「文化祭でミュージカルやろうぜ!!!!!」と言っていたかもしれない。それほどラストのミュージカルはやはり圧倒的だった。カタルシスの妙である。このミュージカルはやはり劇場で見てこそ、その素晴らしさが完全に分かるものなのでまだ見てない人は急いで映画館に行きましょう。今なら劇中で出てきたミュージカルのパンフレット(?)が特典として貰えます。