『人間仮免中』 卯月妙子

人間仮免中

人間仮免中

このマンガがすごい!」とかで選出されてたのでまあ読んでみるかと軽い気持ちで読んだのがそもそもの間違いだった。
結果としてこのマンガは「二度と読めない本棚」へと直行することになった。

これほど「面白いか面白くないかという指標で語ることが不可能」な作品に出会ったのはたぶん初めてのことで、まあ作者である卯月妙子氏の実体験が綴られてるわけだからそれに対して部外者である読者がどうこう言える余地はないのかもしれない。だから「人を選ぶ漫画」という評価はなんか不適当なように思えて、正確に言うならば「人を待ってる漫画」と言うべきだと思う。特定の人には一生ものになるしそれ以外の人には記憶の残滓となって引き出しの奥に収納されやがて風化していくような存在で、そういう儚さというか無常感の塊みたいな抽象的な概念が纏わりついてる、ある種怨念が具現化したような漫画だと思います。

内容はといえば、「子供の頃から統合失調症を患っている作者が20歳の頃に結婚したすぐ後に夫の会社が倒産、借金返済のためにAVに出演するも結局夫は自殺を図る」という「ビューティフル・ワールド」論に埋もれてる闇の部分を最初からこれでもかと表出していてもう死にたさ全開、そこからボビーという還暦を過ぎたおっさんとの同棲生活とか色々丹念に描写されていくんだけど、ここらへんでようやく一筋の光明みたいなものが小出しにされていく。それでもやっぱり不安定なのはもう単純に「絵が怖い」という原初的理由が横たわっている。絵がね、本当に怖い。ヘタなグロ絵なんかよりずっと怖い。絵かどうかすら危うい場面もあったり、急に写実的になったりするから余計に怖い。「お化け」みたいな恐怖じゃなくて、人間から醸し出される念みたいなものへの恐怖がある。

ボビーとの生活までは正直何とかインターバルをはさみながら何とか読めた。作者がいきなり自分の首をカッターナイフで切ったりとかAV関連のエピソードとかかなり過激な箇所もあったけど何とか読めた。しかし作者がボビーと躁状態の時に喧嘩して、そのまま歩道橋から投身自殺を図ってからのエピソードは本当に地獄だった。「ページを捲る手が重くなる」という書評における誇大表現、あれは決して嘘ではなく現実に存在する感覚なんだなーとこんなところで思い知ることになった。もうひたすらにつらい。顔面から地面に落下したので顔の骨はボロボロで左目の骨がずれて両目の位置が左右非対称になってるところとかもうしんどい。おれは何故吐かずにこれを読めるのだろうと本気で思った。中高生のときに読んでたらトラウマになってた。

病院における長期治療のエピソードでは作者の精神疾患からくる妄想が入り混じったカオスの世界が展開される。何が本当で何が妄想かわからないような描き方なので読者も混乱してしまう。加えて作者の顔の描写がかなり生々しい箇所があって、そこで急激に首根っこ掴まれて現実へと引き戻される。看護師が自分を殺そうとしてるとかネットで術後の状況を配信してるとか妄想とはっきり分かる箇所とそうでない箇所は字面を見ると明確だけど、漫画というものの中に「絵」として落とし込んだときその境界線が非常に曖昧になってるので一瞬「こっちは現実か?」と自問することになるうえ作者本人もどこまでが現実でどこまでが妄想の世界かわかっていない。だから本当の意味でありのまま自分の見たものを漫画としてアウトプットしたということになる。

そこから徐々に「生きる」ということについて前向きな意思を持つことが出来るようになった作者と、そのきっかけとなった家族やボビー含めた周りの人々との交流がそれまでより柔らかいタッチで描かれていて、作者の中でも思い出のラベリングとしての陰と陽がある程度はっきりしているように感じる。ここからエンディングの「生きるって素晴らしい」に向けて作者がゆっくりと歩んでいく様子がわかりやすいくらいに明るく描写されていて、ここでようやく『人間仮免中』というタイトルが付けられた意味がわかってくる。「仮免中」というのは作者自身を指していることは言うまでもないが、「仮免中」ということはつまり「本免を取得している人間がいる」ということで、その人間たちこそ作者の周りの人々であった。

ボビーが人間の本免を取得しているかということについてはちょっと疑問がある。ボビーという人間は仕事の能力が高いものの癇癪持ちだったり3度の離婚経験があったりと問題も抱えている人間で、むしろボビーと二人で人間本免許を取得しようとしているように感じた。こういう構図って「互いの足りない所を補う」みたいに捉えられがちなんだけどそういう簡単なもんじゃないのが非常に人間らしい。

読後しばらくは何も考えられなくなるくらいに毒性が強い。人間ドラマというよりは自叙伝、自叙伝と言うよりは手記に近い、ともすれば時代錯誤とも言われがちなこのフォーマットで無理なく一つの作品を完成させているというのは、もう漫画家の領分を超えた手腕が発揮されているようで、ああやっぱこの作者は漫画家ではないんだなー(良い意味で)と思いました。
取り敢えず「誰かに薦める」ということを何があってもしない漫画であることは間違いなく、「このマンガがすごい!」に選ばれてるから読んでみようかな―という軽い気持ちで読んだら深手の傷を負うであろうということは言っておかないといけない(『このマンガ〜』でも小泉今日子久保ミツロウの書評でもこのことには一切触れられてないのが許せない)。ある程度どんな内容なのか把握した上で読むことを薦める。1300円と若干値も張るし。
ただ読むと必ず何かが残る。良くも悪くも何かが残る。読んでも内容が右から左に流れていって何も残らないとかそういう類の作品じゃない。そういう意味では買って読むことには確実に意味がある。なのでそれなりの覚悟を決めた人は手にとって読んでみるといいですよ。