ラブライブ! #13(最終話) 「μ'sミュージックスタート!」

この世に完璧なんてものはなくて、人間自体がそもそも何らかの欠陥を抱えているのだから、その人間が創り出すものにだって何らかの欠陥はある。それは誰もがわかっている。完璧なんてものがあれば地球上の人間すべてが満足するような作品が存在するはずだ。もちろんそんなものは今までも存在しなかったしこれからも存在し得ないのだろう。しかし、大多数の人間にとって「完璧である」と思えるような作品は存在する。物語ならばだいたいの人が共感できるツボを抑える、いわゆる王道と呼ばれるパターンを上手く用いることができれば上記のような作品が出来上がるだろう。そしてこの『ラブライブ』というアニメはまさに、王道の中の王道を突き進んだ物語であり、ほとんどの視聴者が絶賛するような作品になったのではないかと思う。オリジナルアニメでありながらもキャラや基本設定は既に用意されているという土台があって、その中でどうシナリオを作っていくべきかという苦労はあっただろう。しかし花田十輝は一人でやり遂げた。万人が泣いて笑って熱くなれるような小細工無しの直球ストレートのアイドル成長記を描き切った。その素晴らしい活躍に惜しみない賛辞を贈りたい。

まずは最終回について。これはもう何も文句の付けようがない、最高の終わり方だった。ラブライブというコンテンツ展開のことをしっかりと念頭に置いたうえで、無理なく穂乃果の復活とことりを連れ戻すことに成功している。穂乃果がμ'sを抜けて他の友達と遊んでいる中、ダンスゲームによって「学校の存続」というμ'sの活動目的を抜きにしても単純に「歌って踊ることが楽しかった」という事実を思い起こさせる。確かに結成理由には学校のことが関わっているが、ステージで歌い踊っているときの穂乃果は恐らくそんなことは考えていなかったはずだ。ただ純粋にステージに立って皆の前で練習した曲を披露することが楽しかった、そのことに自ら気付くことで少しずつμ'sに対する考え方・向き合い方を変化させていく。街頭でALISEの映像を見たり、アイドル活動を続けていくために神社の境内で練習しているにこたちと再び接することで、さらに穂乃果の中の「アイドル」そのものの意味を見直すことになる。最後の駄目押しは絵里の告白だった。自分の弱さを曝け出すことを躊躇わず、穂乃果の存在が絵里にとってどれほど大きかったかということ、それを聞いた穂乃果が決心を固めることになる。

Bパート最初の講堂はやはり3話目のライブ時の様子を想起させる。あの時と違うのは、そこに穂乃果と海未はいてもことりがいないということだった。穂乃果が海未を呼び出したのは、海未に謝るというよりは自らの決意を海未に伝えるためという意味のほうが大きかった。それがつまり穂乃果が最初からやってきた「やると思ったら、何だってやれた」という経験に裏打ちされた、ある意味自分勝手な行動である。しかしその自分勝手さは最終的にμ'sを引っ張っていく原動力になっていた。そして今回もその勝手さでμ'sを再始動させることになる。誤解を恐れずに言えば、高坂穂乃果という人間は自分勝手だ。しかしそれは決して「自分本位」の考えに基づいているわけでも、ましてや自己中心的なわけでもない。以前穂乃果は「周りのことが見えていなかった」と自省したことがある。しかしその「周りのことが見えない」時は決まって人一倍何かに打ち込んでいる時だった。それも自分の欲を満たすためのものではない。誰か(何か)を救うための行動だ。そう考えると11話における穂乃果のダウンは「自分本位で頑張ったから」だとも言えそうだ。

だが最後になって穂乃果はようやく自分と他人のため、その両方を掴もうとして動くことが出来た。ことりを連れ戻したのは間違いなく穂乃果のわがままだ。しかしことりが本当は「留学するよりもμ'sとして皆と一緒に活動していたい」という思いを抱いていたことが明らかになった時点で、そのわがままはわがままではなくなった。両者の思惑が一致した時点で、穂乃果の行為は誰かを救う行為に変化したのである。「ことりが留学取りやめるのは強引じゃないの」って言う人がいるけれど、ことりはそもそも最初から「留学することを迷っていた」わけで、今まで振り回されてきたけれどずっと一緒にいた穂乃果に「ずっと一緒にスクールアイドルをやりたい」と言われたらそりゃ本当の気持ち(留学せずにμ’sの一員としてスクールアイドルを続ける)に素直になろうとするだろう。だからあの空港のシーンは極めて自然だ。ちなみに空港で穂乃果がことりを迎えに行くシーンと、ライブ開始ぎりぎりになって穂乃果とことりが入ってくるシーンは時間軸が一致していない。空港のシーンが早朝、ライブは夕方近くだと考えるのが一番自然な時間の流れだろう。空港で穂乃果とことりが抱きあうシーンで時計が映されていて、「7:52」を示しているから恐らく間違いない。あと穂乃果がことりを連れ戻すシークエンスにおいて1話で流れた「ススメ→トゥモロウ」が再び流れたのは示唆的だろう。ことりを連れ戻してμ'sを再生させることは未来へと続いていく行為だ。空港で穂乃果がことりに対して「いつか別の夢に向かう時が来るとしても、それでもことりとスクールアイドルをやりたい」と言ったのだってそのまんま未来のことを示している。穂乃果とことりが他のμ'sメンバーのもとに向かってる間に流れているのが「可能性見えてきた 元気に輝ける 僕らの場所がある」という歌詞の部分だなんて、全くもって出来すぎている話ではないか。穂乃果にとっての未来とはまさにμ'sそのものだったのである。

そして最後のライブ。全部手描きというのはさすがに無理だったが、それでも多幸感に満ち溢れたライブだった。3話目で人のほとんどいない講堂で歌った時の「START:DASH!!」とはまるで違う。よく比喩的表現で「音楽に表情がある」というような文言を目にするが、まさにこの「START:DASH!!」という曲には表情があって、3話目とこの最終回ではその表情がまるで違う。もちろん単純に人数が3人から9人になったということもあるが、悲しみや焦りを含んだ緊迫した印象があったあの時のライブと、全員の笑顔と楽しさが伝わってくるような躍動感のある今回のライブ。今までの物語を振り返るにはこの曲があれば充分だったのだ。あの日3人でスタートダッシュして、一旦分解したμ'sがまた再始動することになった。その始まりの曲があの時歌った「START:DASH!!」であることはもはや必然だろう。「講堂を満員にする」という穂乃果の夢はあの時その夢を誓うきっかけになった曲でなければならない。「迷い道 やっと抜け出したはずさ」という歌詞もこの時のことを考えて書かれていたかのようだ(というか多分そうなんだろう)。「講堂を満員にする」夢が叶った穂乃果は歌詞のとおり「喜びを受けとめて」進むことになる。「君と僕 進むだろう」における「君」は他のμ'sメンバーだろうし、勝手な解釈が許されるなら我々視聴者のことをも含んでいるのかもしれない。「君たち」ではなく「君」なのが集団ではなく一人一人のことを示しているようで憎い書き方だ。さすが畑亜紀である。「START:DASH!!」は他にも「雨上がりの気分で高まる期待のなか 躓いたことさえも思い出にしよう」「またひとつ 夢が生まれ」などとにかく本編の内容を示している部分が多い。だからこそ物語を締める最終回にふさわしい曲なのである。ライブの振り付けが基本的に3話の時と変わっておらず、随所で3話と同じカットを使うことで見事に重ね合わせに成功し、穂乃果を中心としたμ'sの成長の物語として纏めることができた。

次はラブライブというアニメ、あるいはコンテンツ全体の話。

ラブライブというアニメはもとより下地が整ってはいたものの、コンテンツとしての認知度はそこまで高くはなく、一部で熱狂的ファン層が形成されているという印象だったが、アニメが始まったことで一気に幅広い層に浸透して盛り上がっていった。アニメのシナリオが小難しくなく、王道を突き進むようなものだったこともあってラブライブを知らない人間でも取っ付きやすかった。このアニメの主人公は穂乃果だが、その穂乃果を含んだμ's全体が主人公の物語としても成立していた。だからこそ穂乃果以外のキャラクタを推している人も文句なく物語を楽しめたのだろう。穂乃果が軸になってμ'sを結成し、スクールアイドルとして活動していくものの、他のキャラにもしっかりとした見せ場があった。1クール全13話という限られた短い時間の中で9人のキャラクタの魅力を描けたのはやはり脚本の功績が大きい。あと外せないのは西田亜沙子による可愛さと色っぽさを兼ね備えた素晴らしいキャラクタデザインだろう。ラブライブのキャラクタの魅力の半分はこの人によって生み出されているといっても過言ではない。様々な表情や動きを見せてくれる9人のアイドルは皆違った魅力を持っていた。

一度挫折した主人公が再び立ち上がって強くなるというのは少年漫画的な王道だけど、このアニメに関してはそうした少々熱いくらいの王道をやれる土壌が整っていた。穂乃果が学校を廃校の危機から救うためにスクールアイドルを結成し、様々な危機を仲間と一緒に乗り越えていく。やっぱりこれは王道だ。まったく歪みない。壁に突き当たって自棄になるなんてのもそう。12話放送当時は「穂乃果の性格変わりすぎ」とか言われてたけど全然そんなことはない。あれは極めて自然な流れだったし、そこで挫折を経験したからこそ最後のライブに繋がっている。11話のエントリでも述べたが、このアニメは「穂乃果が諦めなかった」物語なのだ。しかし初めての諦めを経て穂乃果は「諦めないとはどういうことなのか」、そして「なぜ自分は諦めたくないのか」を知ることになる。それを知ることは強くなることだ。1話の「やるったらやる!」という穂乃果の言葉も、11話の「やろうと思えば、何だってやってこられた」という過信も、全てが糧になってスクールアイドルとしての活動に生かされる。そんな穂乃果の事情を全部わかっていたのは海未だった。このアニメはμ'sの成長という主軸の中に「穂乃果・海未・ことりの3人の友情」が含まれていたからこそ、海未だけが穂乃果のことに気付いていたし、留学の危機を背負うのがことりだったのだ。

結果的にアニメ版ラブライブは果たすべき目的を全て達成することができた。各キャラクタの魅力を余すことなく描き、穂乃果たちが普通の女子高生からアイドルへと強く成長していく姿を丁寧に綴り、要所でラブライブに欠かせない素晴らしい音楽を聴かせる。全てが計算されていたはずなのに何故かその「計算されていた」という雰囲気をまるで感じない。どうなるんだろうという視聴者側の緊張感により一方的にストーリーを不安定なものとして認識していたのかもしれない。しかし実際のところストーリーは至極盤石だった。キャラクタも作画も演出も音楽も安定していた。だが、ひとつだけ、たったひとつだけ安定していないものがあった。それが声優の演技である。特に真姫の中の人なんかは最初は演技が他のメンバーに比べて見劣りしていた。もちろん本業が声優でないのだからそれは当たり前と言える。だが現実にそのつたない演技はどことなく不安感を生んでいた。しかし後半に進むにつれてその演技力がどんどん向上していく。最後には決して見劣りのしないようなレベルにまで達していた。そんなところにもちょっとした感動があったりする。その成長ぶりはアニメのキャラクタたちの成長に重っている。この声優の成長という部分がおそらく唯一の「計算されていなかった」部分なのではないだろうか。その不安定さがあったからこそこのアニメは決して練られたシナリオをなぞるような印象を与えず、最初から最後まで視聴者を引き付けるとびきりのエンタテインメントとして機能したのだと思う。

もうひとつ、ラブライブにとって最も重要なキャラクタについての話。

主役が9人という大所帯の中、よく1人も埋もれることなく皆それぞれ違った個性や魅力を打ち出せるものだと感動した。9人いても性格や役回りが被ったりすることはなく、1人1人が個性的。実質的なリーダーとして皆を引っ張っていった穂乃果はもちろん、その穂乃果を陰ながら支えつつも自らもアイドルとして人前に出ることが徐々に苦でなくなった海未や、自分の気持ちを押し隠し一歩引いた場所にいたものの最後には穂乃果によって素直になれたことり、この2年生組は特に物語の核として重要な役割を果たしていた。μ’sの活動の原点となった3人でのライブに最終回のライブが重ね合わされたこともその証左だ。2年生組がまず物語の骨格を支え、次に1年生組が加入することになる。内気だが人一倍アイドルに関する知識が豊富な花陽、常にポジティブに物事を捉えるムードメーカー的存在の凛、μ’s楽曲の作曲者にして最強のツンデレを体現したかのような真姫という鉄壁の布陣。1年生組をメインに据えたスピンオフ作品が作れそうなくらいにバランスがとれている。こうして見ると1年生組と2年生組はその中だけで物語を作ることが出来そうなのだけど、3年生組だけは少し違う。アイドル研究会の部長であり誰よりもアイドル活動に真剣だったにこ、常に冷静でありながらも穂乃果が手を差し伸べるまで素直になれなかった絵里、その絵里のことを理解した上で支えている希。1年生組はほぼ同時に3人が仲良くなり、2年生組は3人とも子供の頃からの付き合いであったのに対し、3年生組だけは絵里と希の中で関係性が出来上がっていて、その中ににこはいなかった。矢澤にこというキャラクタは非常に特殊な立ち位置で、最年長かつ部長という立場でありながら誰か特定の人物に深く肩入れしたりすることもなく、どこまでも自分を磨くことを考えている、μ’sの中で唯一独立したキャラだった。だからこそ誰に対しても平等に意見することが出来た。

それでも誰もが最初は未成熟、どこかしら足りない部分があったが、μ’sとして活動していくことによりアイドルとしても人間としても成長していく。傍目には変化が見られない凛や希だってしっかりと成長している。凛のポジティブさは他人を元気付けられるポジティブさに変わったし、希は他のメンバーの変化にいち早く気付けるような注意力というか仲間への気配りみたいなものが人一倍できる人間に成長した。そのきっかけとなったのが合宿での真姫とのやり取りだということは言うまでもないだろう。他にも、穂乃果は挫折を乗り越えて自らの思いを貫くことの大切さとそれに見合う強さを手に入れ、海未は人前で歌ったり踊ったりすることへの苦手意識を克服した上で穂乃果たちとの絆を強め、ことりは自らの気持ちを偽ること無く素直になって穂乃果と向き合うことが出来た。花陽は引っ込み思案が改善されて積極的にアイドルとして活動するようになり、真姫は不必要に気持ちを隠して強がることをやめ、絵里は本当にやりたいことを見つけることが出来た。にこに関してはもう単純に「個人としてのアイドル」ではなく「集団としてのアイドル」を意識して行動するようになったというのが一番の変化だろう。μ’sは他の仲間の変化につられて自らも変わっていくという、アイドルグループとしては理想的な関係性を築けていた。ちなみに最終回のライブで「START:DASH!!」のソロパートを絵里・真姫・穂乃果の3人が歌ってるのはもうわかりやすいくらいにそれぞれの学年の代表を表している。μ’sの主軸はやはりこの3人だろう。

繰り返すが、ラブライブというアニメは成長の物語だ。
μ'sが始まって、一旦バラバラになって、最後にはまた皆が集まって再び進んでいく物語だ。たったそれだけのことだ。それなのにこの作品には圧倒的な多幸感やカタルシス、感動や熱い友情といった様々な要素があって、いつもおれたち視聴者の心を動かしてきた。優れた創作作品は人の手を感じさせない、すなわち「人が作ったものである」ということを感じさせないとは誰の言葉だったか忘れたが、このラブライブというアニメは監督がいて脚本家が物語を書いてコンテや演出があってアニメーターが絵を描いて…という当たり前の存在を感じさせない。キャラクタ1人1人が生きていて、己の意思で物語を動かしているように感じさせる。穂乃果も海未もことりも、絵里もにこも希も、花陽も真姫も凛も、みんな間違いなく生きていたのだ。物語の中でとかそういう次元の話ではなく、1人の人間として生きていた。9人のアイドルたちはおれたちの手の届かないところで生きている。だからこそ「ラブライブ(LoveLive)」なのだ。穂乃果たちは役者やスタッフの愛により生命を吹き込まれ1人の人間として存在できたのである。キャラクタ主導型の作品にとってこれほど幸せなことはない。

最後になるが、この「ラブライブ」はやはり見た人間全員が納得する完璧な作品ではない。しかし、見た人間のほとんどが「傑作だ」と胸を張って言える作品だと思う。愛の無い現実世界を照らす眩しいくらいの愛と成長の物語だ。このアニメに関わった全ての人間に感謝すると同時に、絶え間ない幸せが訪れることを願うばかりだ。そして出来れば続編を。





追記:ことりちゃんが一番好きです。