ニセコイ

どこまでもテンプレートを地でいくシナリオをいかにして新鮮で華やかに見せるか、という問題の解をキャラクタの力に見出したことで成功を収めたニセコイ。原作において学校や各キャラの自宅、特定のイベントなどを除けばほとんど風景(あるいは外観)というものが見えてこないことに違和感を抱いていたが、シャフトが手掛けたことでそうしたファクタが極めて合理的に排されていたのだとわかる。様々なシチュエーションにおけるラブストーリーというよりはキャラクタの引き出しをひとつひとつ開けていくことで新しい物語を紡いでいくような、とても現代的なラブコメであることは疑いようもない。そもそもキーアイテムが「鍵」だという時点で我々は限りない時代錯誤の波に押し潰されそうになるのだが、「鍵の有る無しは関係ない、好きか嫌いかでその都度判断するぜ」というスタンスは徹頭徹尾崩されることもなく、だからこそ主人公の一条楽が度々違う女性に惹かれても軸がブレることはなかった。

アニメーションとしてのニセコイに関してはあまり語るところがない。シャフトという制作会社の特徴上、アニメーションの魅力のひとつである動きの恩恵は受けられない。まあつい先日のメカクシ云々におけるゲーム的表現は田中氏が投入されたことでえげつない程の作画の素晴らしさだったので、一概にシャフトは作画的に面白くないとは言えないが、ニセコイはその性質上「アニメーション」という部分よりも「キャラクタが声を発して様々な表情の変化を見せる」という(現在のアニメの主流となっている)部分のほうに力が入ってしまう。キャラクタを魅せる、という点は小野寺小咲のメインヒロインぶりによく表れている。

既に原作は引き延ばしのフェーズに突入しており、あまり言及したくはないが、アニメ(1〜20話)における部分は原作で最も脂が乗った黄金期だったことは事実だろう。ヒロイン4人体制でありながら実質上小野寺と桐崎の一騎打ち。惑わされる一条楽と彼を焚き付ける周囲の存在が上手く噛み合っていた時期だ。鍵というアイテムが形骸化する前、それでいて楽・千棘・小咲の記憶が混濁していてもギリギリ許容された時期でもある。とにかく楽は小咲に対して、小咲は楽に対してしか明確な恋愛感情を持たないし、千棘は最終回に至るまで自分の気持ちに気付かない。この状況が許されるのは楽が小咲以外の人間に対して僅かでも恋愛感情を抱いた時までなのだが、鍵というアイテムを用いて恋愛感情を煙に巻くことで半永久的に引き延ばしを図ろうとしているのが今というわけだ。

アニメ最終回は区切りとしては微妙だがオールスター感を打ち出せたのでまあ正しい選択だったのではないか。演劇パートが丸々コメディとして消化されたことの薄ら寒さは否めないが、非日常の中にメタ的に日常に接地した行為や感情を混入させることで、結果的に「イベント」としての面が強くなった。アドリブコントのような劇の転がし方に対して観客が湧いていることに疑問はあるが、それを言ってしまうとニセコイにおけるイベントの半分以上にケチを付けることになるので止めておく。しかしロミオとジュリエットというテーマはどう考えても古臭いよな。

原作はそろそろ引き延ばしに限界が来ているのでアニメ2期の可能性は微妙なところだ。というか2期やっても終わりまで辿り着けないだろう。ニセコイの終わりというのはつまり楽が千棘を選ぶか小咲を選ぶか、その点に帰着するのでtrue tearsや最近だと俺妹のような賛否両論が起こるのかな、と想像してみたが現時点でどちらに転んでも特に問題ない雰囲気なのでいいんじゃないですかね。ちなみに私は小野寺派です。