惡の華 第七回

  • 惡の華という作品のひとつの山場となるエピソード。春日が自らの中に潜む変態性を自認しそれを曝け出す、人間の本能が剥き出しになったような話なんだけども、それを月明かりに照らされた教室で舞うように発露するという一種の美しさをもって描かれるその落差がとにかく歪に見える。まるで教室をめちゃくちゃにすることが正しき感情のぶつけ方であるかのように肯定的に描かれる。この気持ち悪さが押見修造作品が人を選ぶ最大の理由だと思う。
  • 仲村さんという存在は自ら何かの引き金になるのではなく他人に引き金を引かせるのだと今回ではっきりと認識出来るようになる。自分が変態ではなく普通の人間だとわかっているからこそ他人に何かをやらせたり焚き付けることになる。
  • 春日も仲村さんも乱暴な言い方をしてしまえば中二病の範疇に収まるが二人の中二病のベクトルは似ているようで少し違う。どちらも「自分は他人とは違う」という自意識を肥大化させているが、そのことについて春日は無意識なのに対して仲村さんは恐らく自覚的であるというのが最大の違い。仲村さんはそこから目を背けようとしていて、そのカルマを春日に背負わせようとしている。
    • 仲村さんは自身を変えてくれるのは春日だけだと信じていたし、だからこそ真夜中の教室で仲村さんは「普通になりたいんだよ」と叫んだ春日に向かって「がっかり、結局春日くんも他の奴らと同じなんだ」と言う。それは何らかの期待を裏切られた時にしか出てこない台詞だ。
  • ちなみに佐伯さんが眼鏡を外すのは春日の前だけなので、眼鏡は世界と自分とを隔てる壁の役割があったと考えられる。眼鏡を外すというのはつまり仲村さんは自分と春日との間の壁を自らの手で取り払ったということで、ここに感情表現の希薄な仲村さんの心情を読み取ることが出来る。教室で春日が暴れていた時に仲村さんが眼鏡をかけていたのは「変態性を晒している」行為者が春日であり仲村さん自身はそれを見て楽しんでいたからだ。春日の狂気的な変態と仲村さん自身との間の壁は眼鏡ひとつで表される。