中二病でも恋がしたい! Episode XI 「片翼の堕天使(フォーリン・エンジェル)」

脚本:花田十輝  絵コンテ:小川太一  演出:河浪栄作  作画監督:引山佳代

六花が中二病を治したという事実が提示され「では六花は過去を克服したのか」という疑問が真っ先に湧くわけで、前回の最後の歌唱が自らを縛る過去から解放するためのキーだったと考えるのが自然な感じだけど、それよりも「六花の中二病は中学生時代の勇太に影響されて真似したもので、そこに後から過去の記憶の封印という意味付けをした」と考えた方が良さそう。だからこそ中二病を封印した六花は「らしさ」を失ったように見える。


中二病という個性がアイデンティティと肉薄して境目を失った結果、六花は自らの本心、自らの本当の姿としての中二病を手に入れたとして、ではそれを抑える意味は何だろうと思案すると、行き着く先は家族への気配りであって、父親を亡くした影響もあって母親と姉という心をある程度許した二人に心配をかけないようにという思いが抑止力となっている様子である。


欄干の下で二人が会話するシークエンス、特に六花からの問いに勇太が答えるまでの間の開け方が上手かった。電車が通り過ぎるまでなぜ勇太は話さなかったのかということを考えると色々と想像が膨らんでくる。


中二病を捨てるということは過去との決別ではなく自らを捨てることだと勇太と六花自身がいかにして気付くのかというのが重要なエピソードだった。そのための凸守である。ここにきてオリジナルキャラでありながら六花よりも濃い中二病患者の凸守を登場させた意味がわかった。凸守は単純な六花との比較対象ではなく、六花を元の姿に戻すための揺るがないただ一人の重要なキャラクタだった。不可視境界線がないことを心の奥では理解していながら中二病になり切るという賢すぎる潔さ。上坂すみれは色物声優だと思ってたんだけどものすごく演技上手くて認識を改めた。泣き演技素晴らしい。


モリサマちゃんやくみん先輩はやはり中二病という中心軸から一歩引いた第三者目線で物語に干渉している。ただモリサマちゃんは元中二病患者ということで当事者目線も持ち合わせているオールラウンダーキャラクタである。しかしその万能さゆえに物語に深く関わることは出来ず、結果として勇太への問いかけ、凸守を慰めたりという行為に留まるしかなかった。しかし画面を通してさらに客観性を高めている我々視聴者からするとモリサマちゃんの株はストップ高になっている。この子やっぱり姉キャラなんだよな。


くみん先輩はやはり物語の緩衝材という役割なんだろう。今回ほとんど出番なかったし。この人がいるのといないのとでは実のところだいぶ物語が姿を変えていたのではないかと思う。コメディパートを支えながらもどのキャラクタにも平等に接することの出来る唯一の存在。これはかなり重要な役どころなのでおそらく最終話で目覚しい活躍をするはず。するはずだ。


次回最終回ということで不安が尋常じゃないんだけど、シリーズ構成花田氏だし一縷の望みはある。ここから上手く纏められたらちょっとやばいですね。円盤に手が伸びそう。