中二病でも恋がしたい!

確かに監督が言っていた通り綺麗にまとまった。まあこの世に「完全」などないので多少の不満点はあるにはあるけどそれを上回る物語としての面白さを見せてくれたので良しとしよう。本筋が「ラブコメなのかシリアスなのか」という点でけっこうブレていたように思うんだけど、これはつまり両方やりたくてこうなったのかなーと推測する。ラブコメの中にどれくらいの分量のシリアスを混ぜても作品の形は変わらずにいられるのか、そういった意味では京アニの実験作みたいな感じもする。今後京アニがラブコメのオリジナル作品をやる場合はこういう作風で攻めて来るかもしれないということは頭の片隅に留めておこうと思う。


中二病でも恋がしたい!』というタイトルが示している通り、まさしく「中二病」という「自分のなかで作り上げた妄想の世界」に浸る少年少女が主人公になっている話だったんだけど、この「中二病」というファクターの使い方に癖がある。単純に黒歴史、つまりは若気の至りとかそういった「恥ずかしいもの」として扱うのではなく、「自分は他人とは違う」という根っこの思想の部分を救い上げて「自分の逃避場所」としての中二病を扱っていることに大きな意味がある。それは決して中二病という行動思考を茶化すことなく、思春期の少年少女たちの内面における葛藤に関わる重要な要素として、あるいはそれ自体がキャラクタを形成する唯一無二の個性として中二病というものを確立させた、その事実自体に意味があるということである。


中二病はこのアニメでは仮面であり素顔でもある。それが表裏一体となった姿を見せてくれたのは主人公である勇太だった。中二病を「自らの素顔を見せることが出来る」と考えていた六花とは違い、勇太は一度完全に中二病を「卒業」してしまっている。つまり勇太にとっての中二病とは自己表現、あるいは思想をアウトプットするための一つの方法ではあったが、それが素顔というわけではなかった。それは今になって昔の自分を恥じていることから窺える。六花は決して中二病の自分を恥じることはなかった(中二病を一時的にやめた11話〜最終話を参照)。むしろ11話においては一般人としての素顔が逆に自分を縛り付ける仮面として機能していた。同様に凸守も中二病をやめた最終話において一度も中二病だった頃の自分を恥じるような言動はしていない。彼女らにとって中二病とはやはり有り体に言ってしまえば個性そのものなんだろう。この点で六花と凸守、勇太と森夏は対照的な存在だった。


このアニメでなるほどと思わされたのはヒロインと対照的な存在に置くことにした勇太と森夏がともに「元中二病患者」という設定であるということで、中二病を経験しているのといないのとでは見えるものがだいぶ変わってくる。最悪理解を拒むことになるかもしれない。勇太が六花にとっての保護者的な立ち位置に収まり、そこから恋愛対象としてキャラクタの関係性を発展させていくためには勇太は六花のことを一定以上に「理解」しなければならなかった。そのうえ「理解」はしても「認める」ことはしないという面倒臭い条件をクリアーしなければならない。この条件を一発で満たすのが「元中二病患者」という設定である。また女性側の良き理解者としての役回りを任されていた森夏も同様に中二病に対しての理解が必要だったので「元中二病患者」という設定は必然だった。


そして、勇太や森夏のように元中二病患者でもなく、六花や凸守のように現在進行形中二病患者でもない、何者にも染まっていない真っ白なキャンパスのごとき第三者的存在(だからくみん先輩の私服は白かったんだろうか)としての役割を一手に任されたのがアニメオリジナルキャラクタのくみん先輩である。彼女は一定の思想に傾倒することもなく、誰か一人のキャラクタに入れ込むでもなく、あくまで最年長の先輩として一歩引いたところで4人のキャラクタを傍観していて、そのせいで物語の本筋に絡むことはほとんどない。あくまでくみん先輩は中二病に深く関わってはいけないからである。しかしその掟は最終回で破られることになり、くみん先輩は六花の意思(?)を引き継ぎ二代目蛇王心眼と名乗りを上げ、六花のように中二病患者の行動や言動を真似する。これは六花が「中二病」というファクター(素顔)の保持を放棄したからだが、同時に「くみん先輩を物語に介入させる」という重要な意味があった。昼寝をしているだけでは永遠に物語の中心部には辿り着けない。くみん先輩の中二病は紛れもなく仮面だが、その仮面は六花から受け取ったものではなく、くみん先輩本人が自らの意志で着けた仮面だった。


くみん先輩を物語に介入させたことによって、まず一時的に中二病をやめていた凸守に変化を及ぼすことになる。凸守が中二病をやめたのは自分の本心を一度さらけ出したことに加え、あと一歩が踏み出せない勇太と六花のためを思っての行動だろうが(本編ではそのような素振りや言動は一切見られないのでこれは推測の域を出ないのだけど)、それもやはり「素顔」を隠している仮面であり、逆に仮面を自発的に着けたくみん先輩を見て凸守は再び中二病としての自分を取り戻そうとする。一方で勇太は森夏と勇太の会話や六花の引越しを経て、自らが二年前に書いた手紙へとたどり着く。この手紙が何の伏線もなくいきなり現れたのがちょっと残念な部分だったんだけど、過去の手紙を書いた自分は間違いなく中二病という素顔に自信を持っていたし、手紙の内容も自らの本心を曝け出していて、その過去の中二病に自分が今とるべき行動を教えられ、六花を自転車で迎えに行くという流れは中々のもの。そのあと街から離れた道路の真ん中にくみん先輩が現れるのも「いやそれはさすがにおかしいだろ」という場面で、くみん先輩がここで過去を一気に吐き出すのは構成としてはどうなのかなと。これどうせなら勇太が家から出るときにくみん先輩が家の前に立ってて…という展開のほうが違和感なかった気がする。


ともあれ六花は中二病という「素顔を見せられる仮面」を勇太に教えてもらったことが判明し、勇太の原動力となる。ここから物語は加速して勇太は六花を迎えに現れ、いつかの夏休みの夜のように六花を部屋という檻の中から連れ去っていく。勇太の言う「つまらないリアル」とは中二病をやめた六花が見ている世界、「俺と一緒にリアルを変える」というのは勇太が六花の中二病患者としての素顔を取り戻させるということであり、この台詞がこのあとの「爆ぜろリアル、弾けろシナプス」という合言葉の呪文に連結する。リアルが爆ぜれば現在地は空想の世界となり、シナプスが弾ければ現実世界は見えなくなる。一見すると逃げの言葉であるこの呪文が、作中で一番大きな力を持つとされるダークフレイムマスターになりきった勇太の口から発せられることにより、六花が見て見ぬふりをしてきた世界(リアル)は爆ぜ、六花の感情を内面にせき止めていた壁(シナプス)は弾け、六花は「父親との別れ」という現実世界におけるけじめを付けることができた。ここはこのアニメ最大の見せ場。「感情表現」という映像における描写の難しい部分を中二病的誇大妄想映像に重ね合わせることで見事に心象世界を映像化してみせた。この場面の描写の美しさはやはり京都アニメーションの底力を思い知らされる。


結果として勇太と六花はそのまま自転車で逃避行、紆余曲折ありつつ(ここらへんは全部カットされてたけど)元の家に戻ってきて六花は中二病患者として生活しているという終わり方。他の面子や六花の母親・祖父母など放り投げたものは多いものの、結局このアニメは「中二病」がメインなので中二病患者でないものはあくまでサブ的な立ち回りを余儀なくされるのであった。くみん先輩に恋心を抱いていた一色もその一人。中二病という青春とも言い難いあの独特の病気を経験した者だけがこの物語の中心部にいることができた。そしてそれは結果として一人の人間を救い、また一人の人間を大きく成長させることになった。森夏は中二病を経験しているからこそ他人への優しさを身につけただろうし、凸守は最終回で落ち着いた雰囲気を見せていたように、中二病を卒業したら森夏より上手く立ち回り他人に手を差し伸べられる人間に成長するのではないかと考えられる。


キャラクタ主導の作品としても充分楽しめたし、ストーリーも骨格がしっかりしていて面白かった。欲を言えば六花の父親が死ぬのは過去ではなく現在進行形の事象にしてほしかったという部分もあるけど(過去のことだとどうしても「ああ、そうなんだ」という置いてきぼりな感じがある)、そこまで重くは出来なかったのかな、という感じもする。こういうストーリーのシリアス要素のさじ加減はかなり苦労したんだろうな、と思わせられる部分が随所に見られた。原作があるとはいえ、ほとんどオリジナルストーリーだということでこれは実質京都アニメーションのオリジナルアニメだと思っている。で、某MUNTOに比べて明らかに「上手くなった」という印象を受けた。やっぱり京アニはこういう作風、あるいは完全にラブコメや日常ものに傾いている作品を手がけると平均点を大きく上回る結果を出してくるんだと確認できた。というわけでたまこまーけっとには期待しています。