輪るピングドラム

おれの凡庸な脳味噌では最初に観た時に理解が及ばなかったのが悔しい(3回観てやっと理解)。しかし実に綺麗に纏めてくれたことには大いに感謝している。後半ずっと暗かったこのアニメが最後にこんな形で救済されるとは思わなかった。でもやっぱりわからないこともあるのでもう思いついたことを雑多に書き殴ります。その辺はご容赦を。。

まあ観終わって一番最初に抱いた感想が「なんだこれは。何なんだ」だったので、ひどく簡単かつ雑な言い方をしてしまえば『エヴァンゲリオン』に通じるところがあったのかもしれない。
だがこのアニメがエヴァと根本的に異なるのは、「前半が超展開ではあるものの後半は全てが納得できる」という異様な展開。普通はこの逆になるはずなんだ。意図したアニメも風呂敷を畳みきれなかったアニメも、そのほとんどが後半で超展開を仕掛けてくる。
この『輪るピングドラム』はその多くの作品の中に埋もれることはなかった。前半で超展開、後半で広げた風呂敷を全て畳む、という、視聴者としては納得できる形に落とし込んだ。

前半では別個の檻の中に閉じ込められた子供の冠葉と晶馬の対話と、電車の中で現在の冠葉と晶馬が対話する場面が対比的に描かれているんだけど、現在の時間軸には死を受け入れてベッドに横たわる陽毬と、それを傍観する眞利が存在する。
まあいい。ここまではわかる。しかしその後苹果が出てきてからがもう凄まじい展開。これはもうネタバレとかそういうのじゃなくて説明に困る。ので見たほうが早い。

でも全部観終わってわかったのは、これはそういう「謎」や「伏線」に重点を置いていなかったんだな、ということで。真に必要だったのは恵まれない子供たち、愛してると言われない子供たち、彼らの救済だけで充分だったのだ。

さて、このアニメの「運命を変える」「女の子による世界の救済」というポイントに注目してみると、今年放送されたある作品との共通点を見出すことが出来る。まあ言うまでもないだろう、『魔法少女まどか☆マギカ』である。
こちらはもう語る必要もない大傑作であるが、『輪るピングドラム』にもその「絶望から希望を目指す際に、世界の根底を覆そうとする」という意識があったことは結構面白い。

まどか☆マギカは震災前と震災後を跨ぎ、輪るピングドラムは震災後に放送された。アニメ自体を製作、あるいは着想したのは恐らく両作品とも震災前であったはず。だからよく震災に絡んで「この閉塞感漂う現状を打破するために運命という眼に見えないものを変えようとした〜」云々という言説はまったくアテにならないわけで、それらはすべて「偶然だよ」で片付けられる。しかし視聴者たちの心の奥にはやはり何らかの閉塞感はあったように思う。

その閉塞感を打破してくれる、大雑把に言えば「絶望から這い上がるための希望を持たせてくれる」ことに多くの視聴者が共鳴し、熱狂したのだと思う。このアニメに関して言えば、最後には『まどか☆マギカ』よりも分かりやすい形での「希望」を提示していた。

運命の乗り換えによって出会うべきだった人、血の繋がりがあった人、そんな人達との出会いや繋がりが全てリセットされる。しかしそれはゲームオーバーからのスタートではなかった。苹果と陽毬は運命を乗り換えても再びめぐり逢い、真砂子に至っては冠葉との幸せだった頃の記憶がわずかながらに残っていた。それこそが「運命の乗り換え」という行為が「リセット」ではなく「救済」だったことの証明に他ならない。

「全ては救われた」。稚拙な言葉ではあるが搾り出せるのはこのくらいだし今のところこれが一番適切な言葉であると信じたい。

そうそう、このアニメは劇中曲の選曲がほんとうに特異だった。だがそれがアニメとの相乗効果で更なるインパクトを生み出し、結果的におれはトリプルHのアルバムを購入するまでに至った。しかしこれがまた凄まじい出来で買ったことに対する後悔はない。やくしまるえつこのOP曲も良かったな。

あと『ウテナ』では劇場版アニメ制作したけど、このアニメではやらない気がするな。前述のとおりこのアニメは「謎」にも「伏線」にも重点が置かれていないので、もうやることがない。というかこのまま終わったほうがいいと思う。新しい話を作っても蛇足になるだけだ。そうしてこの作品の評価を下げるようなことはして欲しくない。名作は名作のまま幕を下ろすのが一番だ。